いつものことだ。
ヒューゴには軍をどうするこうするとかいう、難しいことはわからない。
シーザーもそれはよくわかっている。
だから、わからないと言えば後で説明してくれる。迷惑そうな顔や、毎回のことにうんざりしたような様子も見せない。
けれど、何となくシーザーと自分の住む世界に隔たりがあるような、そんな感覚までは拭い去ることはできない。
地図や、小難しいことが沢山書かれた書類を前に、大人達に遅れをとることなく、むしろ前を歩くシーザー。その側にいつも控えるアップル。
彼女はシーザーと同じ“世界”に居る。
ヒューゴにはわからない言葉。付いていけない話題。
彼らだけの。

* * *

よく冷える日だった。
こんな日は、心まで寒くなって誰かと一緒にいたくなる。
思いつく人物といえばシーザーぐらいだが、これで会いに行けばからかわれるのは見えている。
それが嫌なわけではない。構ってくれるのは嬉しい。
だがそれを悟られたくない。
では他に一緒に居たい者がいるかと言えば、居ない。
誰であろうと、何か物足りないのだ。
そんなに求めてしまっていることを、ヒューゴはあまり自覚していなかった。
意を決して、部屋を出た。
シーザーが居るのは、会議室だろう。
「……入るよ?」
ココン、とノックして扉を開けた。
中には目的の人物はおらず、アップルがいた。
「ヒューゴ君、どうしたの?」
「あの……シーザーは?」
なんとなく彼の名を口にするのが恥ずかしく思えて、一瞬の間が空いてしまった。
「シーザーなら、自分の部屋で寝てるわ」
昼間から堂々と自室で寝ていることは珍しかった。
ましてやアップル公認であることなど、一度も無かった。
「……シーザー、そんなに疲れてるんですか?」
「そうね……最近よく疲れたって言ってたわ」
シーザーは、眠い、ダルいとはよく言うが、疲れたとは言ったことがない。
眠いダルいはシーザーの口癖のようなもので、疲れていようがいまいが、常に眠いしダルいのだ。
だが疲れを表に見せることは無かった。
その彼が言うのだから、大分体を酷使したのだろう。
ヒューゴには、そんなことは一言も言わなかったし、そんな素振りも見せなかった。
「……そんな風じゃなかったのに。オレにはそんなこと一言も……」
「そうね。あなたには言わないでしょう」
アップルだから言ったのだ。
そう言っているように聞こえた。
ヒューゴには言ってくれなかった。
全てを晒すのはアップル。
アップルはシーザーの家庭教師だ。幼い頃からシーザーを見ている。ヒューゴの知らないシーザーを沢山知っている。
急に、胸が苦しくなった。
「ヒューゴ君?大丈夫?」
「……はい。すいません。オレ少し外出てきます」
「ちょっと待って!ヒューゴく……」
アップルの声を無視して、部屋を飛び出した。
言葉を遮るように扉を乱暴に閉め、そのまま駆けて城の外に出た。
きっと今はすごく嫌な顔をしているから、誰にも会いたくなくて森に入った。
奥まで進むと草原になっていることを知っている。
ヒューゴは草原の民カラヤ族。
草原にいると一番落ち着いた。
開けた場所まで一気に走って来たので、息が上がる。
白い息を何度も吐き出した。一緒に透明な水も瞳からこぼれ落ちた。
体が落ち着いた所で座り込み、心を落ち着けようと精神を集中した。
シーザーと出会ったのは、ごく最近だ。
それまで十数年間お互い無しの人生を歩んでいる。
出逢ってからだって、1日ずっと一緒にいることなど無い。
それは当たり前。
その当たり前の空白が酷く不快だ。
仕方のないことなのだからと自分に言い聞かせてみても、我が儘な心は大人しくなってはくれない。
シーザーはヒューゴには疲れたとは言わなかった。
幼い頃から一緒のアップルには言った。
アップルには弱みを見せられるのだ。全てをさらけ出せる。
ヒューゴは、シーザーと同じ世界の住人ではない。同じ世界には住めない。
「シーザー……っ」
嗚咽の代わりに名前を呼んでみた。それで楽になれるはずも無かったけれど。
同じ世界には住めない。
それで割り切れてしまえばいい。そうすれば楽なのだ。
だがやはりこの我が儘な心は、諦めてくれない。
「シーザー……シーザーシーザぁ!」
「何だ」
返事が返ってくるとは思わなくて、驚いて涙も止まった。
「俺のこと捜してたんだって?」
「別に……大した用じゃない。シーザー疲れてるんだろ?」
名前を連呼していた正にその人が現れて恥ずかしくなり、つっけんどんな言葉になってしまった。
「部屋戻るの面倒だし、ここで寝る」
「こんな寒い所で?」
シーザーはヒューゴの言葉を無視して隣に身を横たえた。
「……俺がちゃんと話さなかったせいで悩ませちゃったみたいだな」
「……?」
「お前に疲れたって言わなかったのは、心配かけたくなかったからだ。アップルさんだから言ったんじゃなくて、お前だからこそ言わなかった」
シーザーがヒューゴが悩んでいたことを知っているはずがない。
まして何を悩んでいるかなど。
アップルだろう。
冷静になって考えれば、アップルが意地悪な意味であんなことを言ったはずがないのだ。
勘違いして勝手に一人で妬いて、アップルに当たった。
なんて馬鹿らしい。それ程に自分は視野が狭かったのだろうか。
「……なぁヒューゴ、フーバーとはどうやって会ったんだ?」
「何だよ、藪から棒に」
「いいだろ」
「……狩りに付いて行って、グリフォンの成獣が死んでたんだ。その側に居た。まだ小さかったから、連れて帰ったんだ」
「それで?」
「……最初は怯えてオレにも噛みついた。けどそのうちに慣れてきて、馬屋で一緒に寝たこともあったな。あいつ、小さい頃は臆病で、山羊に追いかけられて隠れるような奴だったんだ」
「今はお前乗せて魔物の群に突っ込んで行くのにな」
「うん。フーバーが変わったのは、もう少し大きくなってからだ」
「何かあったのか?」
「大きくなったから、村には置いておけないって母さんがフーバーを売ろうとした。オレ、グリフォンの羽とかは高く売れるって知ってたから、殺されると思ってその晩フーバーを逃がした。少し離れた森まで連れて行って、帰ろうとしたらフーバーの声が聞こえた。普通の声じゃなかったから、様子を見に行ったんだ。そうしたら、罠にかかってたんだ。カラヤの罠じゃなくて、なかなか外せなかった」
話しているうち、夢中になっていた。
その様子を見守りながら、シーザーはただ黙って聞いている。
「気が付いたら、狼に囲まれてた。フーバーは逃げられないし、オレは必死で戦ったよ。けど一番大きな狼に押し倒されて、もうダメだと思った時、フーバーが罠を地面から引き抜いて助けてくれた。気が付いたら、村にいた。フーバーが運んで来てくれたらしい。それから、フーバーはすぐにカラヤの一員と認められたんだ。腕輪もその時あげた。オレのとお揃いなんだ」
そう言いながらヒューゴは自分の腕輪を示した。
だがシーザーと目が合うとすぐに腕を下ろし、ばつが悪い顔で正面を向いた。
先程まで機嫌が悪かったのに、急に態度を変えたことが恥ずかしくなった。
「どうした?」
「……何でもない」
シーザーは起き上がって、いつもは眠そうな目を真摯な表情にしてヒューゴを見つめた。
「なぁヒューゴ、もっと話してくれよ。俺が知らない十五年間のこと」
「え……」
「俺は、俺が知らなくてジョー軍曹やフーバーやルシア達が知っていることがあると、腹が立つ……!」
「……」
「お前の全てを知りたい。お前の全てを手に入れたい。お前と同じ世界に住んでいたい」
シーザーも同じことを考えていた。
それが今、大きな喜びを生んだ。
「俺は、戦術とかはわかっても実際戦うとなると全く何もわからない。お前とは同じ世界には住み得ない」
「それは、オレも同じだろ?いつもシーザーとアップルさんの話してることがわからなくて、後で聞いて……」
「何だ。お前アップルさんに妬いてたのか」
「な……!妬いてなんか!」
「俺は妬いた。俺が知らないお前を、知っているやつら全員に妬いた」
あまりに素直に告白されて、面食らった。
急に抱き寄せられて、シーザーの肩に顎を乗せた。
「俺もお前も、お互い知らないことは多いけど、二人しか知らないことはもっと多いだろ?」
そうだね……と答える代わりに、背に腕を回した。
入れ替わりにシーザーの腕が緩んで、ヒューゴの顎を持ち上げた。
ゆっくりと近付いてくる顔を見て、思わず顔を背けた。嫌だったわけではない。心の準備というものがある。
「……あ、雪」
地面に、白い綿が舞い降りてきた。
何となく気まずかったのもあり、シーザーから離れて雪を見上げた。
両手を伸ばし、受け止める。
火照った顔に冷たさが心地よい。
雪はほとんど見たことが無かった。珍しくて、ついはしゃぐ。
くるくると雪の中で回り、シーザーを振り返る。
「ほら、綺麗な粉雪!」
また空を見上げて踊る。次々と迫る白い玉を全身で受け止めて。
急に、後ろから動きを封じられた。
「シーザー……」
「逃げんなよ……」
体を反転させられて、シーザーと向き合う格好になる。
思った以上に真剣な眼差しがあって、どぎまぎする。
腰を抱かれて、もう逃げられなくなってしまった。
顔を俯かせて細やかな抵抗を試みる。
「逃げるなって」
ギュッと抱きついてみた。
それで満足してくれはしないだろうかと思って。
この状況は、あまりに出来すぎていて逆に恥ずかしい。
シーザーは諦めるかと思えば、ヒューゴの唇にありつけなかった自分のそれを首筋に落とした。
「な!シーザ……っ!」
舌まで動員されて、言葉が途切れた。
シーザーから逃げ切れるわけがなかったのだ。それを今更思い出す。
ヒューゴは腕を緩め、シーザーの首に回した。ゆっくりと瞳を閉じる。
「最初からそうしてりゃいいんだ」
唇に吐息を感じる程近くで囁かれた。
柔らかく湿った暖かいものが触れる。
今、世界には二人しか居ないような錯覚を覚えた。
いや、この雪の舞う草原は二人の世界だ。
この広い世界の中に、小さな二人だけの世界がある。
それはすごく幸せなことのような気がした。

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