空はどんよりと重たく、冬独特の情景の一部を飾っている。
雪は見えないが、やはり、寒い。
隣りを歩く真宵は、冬用とはいえいつもの装束だけで特別な防寒はしておらず、見ている方も寒い。実際彼女も体を縮めて、寒さに耐えながら歩いている様子だ。
「真宵ちゃん、そんな格好で寒くないの?」
「さ、寒いに決まってるよ。今は冬だよ?なるほどくん」
「そういう問題じゃなくてさ……」
手先や、むき出しの脚が可哀相に見えてきた。
しもやけを起こしやしないかと気掛かりでならない。
「あ、そうだ。こうすればあったかいよ、真宵ちゃん」
成歩堂は真宵の冷えきった手を取った。
成歩堂の手も決して温かくはないが、二人分の熱を集めれば、少しは温かい。
突然手を握られた真宵はパニック状態だ。
「な、なな、な、なるほどくん!?や、やめようよ、ダメだって!」
「どうして?」
困り果てた顔で真宵は黙ってしまった。
僅かに上気した頬が可愛らしい。
より強く握り直すと、真宵の手にも少しだけ力がこもった。
掌から伝わる熱と共に胸も熱くなって、成歩堂は微笑んだ。幸せな気持ちのまま、素直な感想をもらす。
「……あったかいね」
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2、おやすみが言いたくて
事務所を閉めた後は、真宵は倉院の里に帰っていた。いつも彼女を駅まで送ってから、成歩堂は自宅のアパートに帰る。
別れ際の彼女の笑顔を思い返しながら夜道を歩くのだ。幸福が何倍にも膨らんで胸を満たす。
だが自宅に着くとそればかりもしていられない。
彼の部屋は、何しろ収入が少ないので狭い部屋だ。
暗い部屋に入るとすぐにでも布団にもぐりたかったが、とりあえず風呂には入らねばならない。成歩堂は朝風呂はしない主義だった。
湯を張る間に背広を吊るしてしまう。
疲れた体で風呂は億劫だが、湯船に浸かってしまえば逆に風呂こそが疲れた体には必要だと思えてくる。
そうして、温かい湯に浸かりながら気分もリラックスして眠気が襲い来る。瞼が落ちたり上がったりを繰り返す。
と、突然トノサマンのテーマが響いた。ケータイが鳴っていた。
唐突に覚醒して、慌てて湯船から上がった。
腰にタオルという格好でケータイを取った。真宵からだ。
「もしもし真宵ちゃん?どうしたの?」
こんな時間にかけてくるのが心配で、思わずまくしたてる。
「ごめんなるほどくん、今忙しかった?」
成歩堂の早口が、真宵には早めに切り上げたい気持ちの表れと感じられたようだ。
安心させるように、落ち着いた声を心掛ける。成歩堂が心配したような状況でもないようだし、焦る必要も無い。
「大丈夫だよ、何かあった?」
「うん……えーとね……」
言い淀んでいる。
成歩堂は電話の向こう側の真宵の表情を想像しながら、待った。
「あのね、おやすみって、言いたくて……」
「そ、それだけ?」
「なによぅ!だって今日別れる時、おやすみ言わなかったから!」
考えてみると、真宵はいつも別れ際、おやすみを言う。成歩堂はそれに自然に返していたから特に気にしていなかったが、あれには真宵なりに何か意味があったのだろう。
「……うん、そっか。おやすみ、真宵ちゃん」
「おやすみ」
会話を終わらせた。
たったそれだけで慌てて電話をかけてくる彼女が愛しい。
が、そこで浸っているわけにもいかなかった。
電話を切った途端に裸の体で立っているのに気付く。
慌てて湯船に戻った。そうしてその場で真宵の声を思い出していた。
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3、名前を呼ぶだけで
事務所の電話が鳴っている。
決めているわけではないのだが大抵は真宵が電話を取った。しかし最近成歩堂が取る率が高いような気がした。
実際今も真宵の姿は見えず、仕方なく仕事の手を止めて受話器を取った。
「はい、成歩堂法律事務所です」
話している最中に真宵が戻ってくる。
それを目の端で捉えながら会話を続ける。
話を終え、受話器を置いた。
「真宵ちゃんどこ行ってたの?」
「ん、ちょっとね。どうしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ、最近電話取ってくれないなあって。あ、責めるつもりじゃないよ!」
真宵は気まずそうに視線を逸らした。
そこから察するに、どうやら意図的に受話器を取ることを避けているらしい。
「いや、いいんだ!ごめん、変なこと言って」
「……ご、ごめんね、違うの。その……」
言い訳があるらしいが、どうにもその先の言葉がなかなか出てこない。
成歩堂は彼女を困らせてしまったことに焦りを感じていた。普段明るいだけに、彼女とシリアスなムードになるのは苦手だ。
なんとか雰囲気を立て直そうと殊更明るく振る舞う。
「おなか空いたね!ご飯にしようか!」
「あの、聞いて。誤解されたくないから」
真宵はきっちり話をつけるつもりらしかった。
あまり言いたくないことなら聞き出したくもないと思うのだが、彼女の気が済まないのだ。なかなか強情で、変な拘りがあるところがある。
成歩堂の目からは少し視線をずらして、だがなるべく真っ直ぐ見ようと努めているのは伝わってきた。
「名前をね、呼ぶのが、恥ずかしくて……」
「……は?」
「いや、だから、な、なるほどくん、の名前をね」
「成歩堂法律事務所って言うのが、恥ずかしいって?」
真宵はいよいよ俯いてしまった。
成歩堂は思わず吹き出す。
思い返してみると、最近彼女からの呼び掛けは「ねぇ」ばかりだった。
「そっか、僕の名前を呼ぶだけでドキドキしちゃったんだね」
「ち、違うよ!ドキドキなんてしてないって!」
「へぇ、そう?じゃあ、僕の名前は?」
ちょっと意地悪しすぎかな、と思いながら尋ねてみる。
真宵は一瞬怯んで、渋々言葉を絞り出した。
「……成歩堂、龍一」
彼女の顔を見れば、わざわざ胸に聴診器を当てずともわかる。
にやり笑いが抑えられない。
「いいよ、じゃあこれからは僕が電話係ね」
返す言葉を見付けられず、真宵は黙ったままだった。
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4、そんなところが好き
「捨てちゃった!?」
「う、うん……」
「なんでどーして!?」
真宵は自分の受けた衝撃を全て込めて叫んだ。
成歩堂はたじろいで弱気な顔だ。
「だって真宵ちゃん、いらないって……」
「そんなん本当なわけないじゃん!確かにあのカードは持ってる人多いけど、もしかしたらトレーディングに使えるかもって言ってたでしょ!?」
「でもさ、いい加減増えすぎたって」
「取っといて損は無いもん!!」
初めはただショックだったが、段々と苛々に変わっていく。
トノサマンカードは真宵にとって宝だ。いくらダブったカードでも捨てるなんて言語道断。それも勝手に捨てられたとなると尚更受けた衝撃は大きい。
「悪かったよ、真宵ちゃん」
「なるほどくんのバカ!バカぁ!ひどいよ!!サイテー!!」
熱くなった頭で、次々に飛び出す言葉を考えもせずに発した。
気付いた時には、ちょっとした悪言では済まない程度になっていた。過ちに気付いたが、もう戻れなかった。
「……だから、謝ってるじゃないか。だいたい、真宵ちゃんが放っておいたのが悪いんだろ?それだけ置いてあったら誰だっていらないんだと思うよ!」
「だからって勝手に捨てちゃう人なんていないよ」
「大事なものをそんなに無造作に扱う人もいないと思うね」
もう止まらなかった。
言い合いが続いて、啖呵を切って仲直りもせずに終わる。
成歩堂は事務所から出て行ってしまって、真宵はそのまま残った。怒りとも悔しさとも違う、なんだか不快な気持ちを抱えてソファに寝転がる。
眠って落ち着こうと思った。
* * *
目が覚めた時にはもう辺りは暗かった。
時計を見ようと体を動かして気付く。毛布が掛けられている。
胸が少し苦しくなった。
(ケンカしてたのに……)
どこまでも優しい彼なのだ。
成歩堂に会いたい、と強く思った。
携帯を慌てて取り出して電話番号を探す。指の動きが焦れったかった。
早く会いたい、謝りたい。
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5、おでこ、あわせて
真宵は、千尋がいなくなって、ここにいる。
千尋がいたら真宵はここには多分いなかった。
そのことを成歩堂はどう思っているのか、時々真剣に考えることもあるのだ。
* * *
デスクに向かう成歩堂は、複雑で面倒な書類と格闘していた。
彼はややこしいモノは苦手だ。法律という、ややこしいモノの中でも特にややこしいモノを扱う職業を選んでしまったのは、実は失敗かと思うこともあった。
それでも、夢だったからなんとか頑張れているのだった。
「……あ〜もう、頭痛くなってきたな」
ペンをデスクに転がして、体を伸ばした。
真宵はソファから立って給湯室に向かう。それに気付いて成歩堂は声をかけた。
「ありがとう、でもいいよ真宵ちゃん」
「うん」
そう言いながら、真宵は足を止めなかった。
ポットのお湯を確認して、急須を用意しながら会話を続ける。
「ちょっと休もうよ。あたしもお茶飲みたくなっちゃった」
「真宵ちゃんは、お茶菓子狙いだろ?」
「バレたか」
軽い笑いが漏れる。
冷蔵庫から羊羹を取り出す。小さな皿に乗せて、茶の道具一式と共に盆に置いた。
「今日はね、はみちゃんのお土産の羊羹。おいしいんだってよ」
「へえ。春美ちゃん気が利くねえ」
そうでしょ、と身内自慢をしつつ、応接間に盆を運んだ。
成歩堂も応接間のソファまで来た。
茶と菓子をそれぞれの前に並べる。向かい合って座ったところでお茶会が始まる。
まずは菓子に手が伸びた。
「うん、おいしいね、この羊羹」
「ほんと!この絶妙な甘さがたまらないね!」
好みの味だったのでもったいなくて、一口を小さく切り分けて食べた。
綺麗に切るのが難しく苦戦する。
「あ〜あ、早くあんな面倒な仕事片付かないかな」
「山のような仕事もいつかは終わるんだよ。いつなのかはわからないけどね」
「……励ましてるようでやる気無くすようなこと言うなよ」
げんなりした顔の彼を見て、歯を見せて笑った。
口が甘くなりすぎたので茶を飲む。緑茶の苦み、渋みが羊羹の甘みを中和していく。
もう一口含んで、今度は緑茶の甘みと香りを楽しんだ。
「千尋さん、ああいうのも簡単そうにやってたから楽なもんだろうと思ってたんだけど……千尋さんだから、なんだな」
お茶の時間に仕事の愚痴を聞くのは、真宵の仕事でもあった。この休憩の時くらいしか彼の口から愚痴は聞かない。
「千尋さんがいれば押し付けるのに」
成歩堂は笑いながら冗談めかしく言った。
真宵は頬を膨らませて不機嫌を表現する。
「なによ、あたしはなるほどくんの仕事には役に立たないって言うんだ」
「ち、違うよ!」
「いーよ、あたしはどうせフツーの霊媒師の女の子だから」
「霊媒師の時点でフツーじゃないと思うけど……」
本当は、少し泣きたい。
それを隠すため、笑いを誘った。
いつもの癖だ。重い空気が苦手で、素直に甘えればいいのに傷ついたことを隠してしまう。
拗ねた振りをして、羊羹をつついた。伏せた顔の下で、必死で感情のうねりを抑える。
「ねえ、真宵ちゃん」
「っわ!どしたの、なるほどくん!?」
成歩堂は隣りに座っていた。
それにさえ気付かなかった。
肩を両手で掴まれて、無理やり成歩堂の方に向けられる。どうしたって彼の顔を見ないわけにはいかなくなった。
「君は千尋さんの代わりじゃない」
「当たり前だよ!あたしは法律なんてわかんな……」
「そうじゃない」
成歩堂の顔が近付いてきて、額が軽くぶつかった。
近すぎて歪んで、表情なんてわからない。ただ、目を真っ直ぐ見ているのはわかる。
「君は、君のやり方で僕を支えてくれてる。前にも言ったろ?君は役立たずなんかじゃない」
成歩堂の表情なんて、滲んでわからない。ただ、頬を伝う水を指で拭ってくれているのは感じる。
そっと抱き寄せられて、肩口に顔を押し付けられる。
「だ、だめ!スーツが……」
「僕だって代えくらい持ってるんだよ」
思わず小さく吹き出した。
「……そうだったんだ」