だから、この花にこんな名前を付けたの。
forget-me-not
* * *
あなたとの出会いは、忘れるはずもない。
あなたは画家で、町で私にモデルを頼んだのだったわね。
私は特別な予定があったわけではなかったから、引き受けた。
絵のモデルなんて初めてで、私は戸惑ってしまったけれど、あなたは淡々と、落ち着いた様子で教えてくれた。
その感じが冷たいようにも見えて、私のあなたへの第一印象は最悪だったのよ。
ああやっぱりやめておけば良かった。声をかけられた時、この人少し怖かったもの。
モデルをしている間中、そう考えていたのだわ。
あなたが描き終わるのが、待ち遠しかった。早くモデルなんてやめて、家に帰りたい。
私は家でやらなければならないこと、やりたいことをつらつらと考えた。
お花に水をやらなきゃ。それに今日は新しい本を買ったから、それをベッドにごろんと寝転がって読むの。
それから、それから……。
そんなことを考えていたら、あなたはできたと小さく言って、私に絵を見せてくれた。その時も、あなたの顔は変わらず何の感情も無かった。
見せてもらった絵に、私はひどく感動したの。あなたにはわからなかったでしょうけれどね。
だって、絵の私、とても醜い顔だった。
顔の造形は、私が鏡で見る私と変わらないの。それほど醜いものではなかった。表情はあなたに指定された通り、少し笑っていたわ。
けれど、醜かった。
すぐにわかったわ。私の心までこの人は描いてしまうんだって。
なんて素晴らしい画家なんだろうと思ったのよ。
それから、私は暇があればあなたの所に行って絵を描いてもらった。いつも同じ場所にいたから、捜すのはとても簡単だった。
時々あなたは別の人や風景をモデルにしていたけれど、その人が終わるとすぐに私を描いてくれた。
私は描いてもらう度に綺麗になっていったわ。
あなたに言ったことがあったわね。
私はこんなに美人じゃないわ、って。
あなた黙っていたけれど。
それから、一度あなたに私以外の人を描いた絵を見せてもらったことがあった。
私、驚いたのよ。あんまりあなたらしくない絵だったものだから。
同じ人が描いたとはとても思えなかった。まるで平凡な画家の絵だったわ。
私の絵のように、モデルの心がわからないのよ。
その絵を見て私が少し笑ったら、あなたは初めて積極的に感情を見せてくれた。
何がおかしいの、と不安そうな顔で問い掛けて。
おかしくなんかない。ただちょっと嬉しかったの。と答えたら、あなたは黙って悩んでしまった。
そうね、私もあなたも、愛し合っていたのだわ。
そうして私達は一緒にいる時間が増えていった。
ある日、あなたが私を誘ってくれた。どこかに二人で出かけよう、って。
……嬉しかった。
私達は、野原に行くことになった。あなたはそこで私の絵を描きたいと言ったわ。
持って行ったのは、あなたは絵の道具。私はお茶の用意。
私は飛び切りのおしゃれをした。
特別の日のために取っておいた、レースのたくさん付いた白いワンピースにピンクのボレロを羽織って、鍔の広い帽子を。
少し大きすぎるバスケット。中にはあなたのために作ったスコーンを入るだけ。それから祖母がこの日のために用意してくれた茶葉とジャム。
けばけばしくない程度に少しお化粧をして、髪は母がくれたルビーの髪留めで軽くまとめた。
私はとても美しかった。あなたを想えば、いくらでも綺麗になれたの。
あなたはどうせ私のおしゃれなんて気付かないと思ったわ。気付いても、何も言わない。あなたはそういう人だもの。
そこが嫌いとかじゃないの。そういうところも全部好きよ。
でも、気付いて褒めてくれればもちろん嬉しい。
ほんの少し期待して待ち合わせの広場に行ったの。あなたは噴水の所に座っていた。
いつものような、簡単な格好。画材で汚れてしまっても構わないように。
それにあなたは裕福でなかった。
私を見付けてあなたは立ち上がる。近付いて挨拶を交わすと、あなたは一言、行こう、と言った。
やっぱり何も言ってくれないの。少し寂しくても、でもそんなことは気にならない。
あなたが先に歩き出して、私は後に。
あなたは数歩と歩かないうちに振り返った。
手を差し延べて、持つよと言った。一瞬何のことかわからなかった。あなたがそんな風に私に接したのは初めてだったから。
あなたの視線を辿って、私のバスケットのことを言っているのだと気付いた。
大丈夫、軽いの。あなたの荷物の方が重そうだわ。
私が答えるとあなたは頷いていた。
そして、私のバスケットを持つはずだったその手を、私の手に伸ばした。あっと言う間に私の手はあなたの手の中。
私にすっと近寄って、小さな声で言ってくれた。
今日はいつもよりももっと、綺麗だね。
驚いて見上げて見たあなたの横顔、今でも忘れられない。
囁かれた私と同じくらい赤くなって、少しおかしかったわ。
野原に着くと、あなたは早速私を描きたいと言った。
私も頷いて、座った。
私はあなたが絵に色を付けたのを見たことが無かったけれど、その時あなたは絵の具を持っていたわ。あなたはそれを取り出して、描き始めた。油絵の具みたいだった。
いつものように、感情のわからない声であなたは指示を出して、私はそれに従ってポージングしていく。あなたが満足するまで、何度も動かされるのよね。
ポーズが決まったら今度は作業に入って、これも辛いわ。
けど、私はあなたに描いてもらっていると思うと楽しくて、退屈に思ったことなんて一度もない。……初めて出会った時を除いてね。動いてはいけないのが窮屈なのだけれど、胸が弾むわ。
私を描くあなたに見惚れていると、いつの間にか時間が経っていたのね。あなたは筆を置いて大きく溜め息を吐いたわ。
ポーズを崩さないようにして、できたのと尋ねた。あなたはただ頷いて、疲れていないかと私にきいたわ。もちろんそんなことはなくて、私はすぐに否定してあなたに駆け寄った。あなたの絵を見たくて。
とても綺麗な女性がいた。本当に私かしら、とあなたに問い掛けたらあなたは、君だよ、と短く答えた。
私はあなたにお礼を言った。私をこんなに綺麗にしてくれて、ありがとうって。
あなたも私にありがとうを言った。あなたが何を意図してそう言ったのかは教えてくれなかったけれど、きっとたくさんの感情が込められていたのでしょうね。
あなたは感情を表すのが下手だから、短い言葉にたくさんの意味を託す癖があるわ。それって素敵なことね。
この時、私達は初めて口付けを交わした。
お茶を飲みましょうということになって、草の上に二人で座ったの。ふかふかの草は、座っていてとても気持ちが良かったわね。
私が持ってきたお菓子を、あなたはただ黙って食べていたけれど、あんなにたくさんあったスコーンを全部食べてしまった。私はほとんど食べていなかったのよ。
お腹が苦しくないかしらと心配になったわ。
そのまましばらくお話しして、あなたが突然立ち上がった。私が見上げていると、あなたは手を差し出した。その手を取ると強い力で引かれて、腰が浮いたわ。
散歩しようと言うの。私は喜んで受けた。
たくさんの花があったわね。
あなた、全然花の名前を知らなくて驚いた。桜草を向日葵って言ったかしら。
かわいいと思ってしまったなんて、言えないわね。
しばらく行くと、谷があった。とても深くて、底はとても小さく見えた。
そこに、綺麗な花があったの。谷の壁に。見たことの無い花だった。
青い・・いいえ、そんな単純な表現では言い表せないような綺麗な色で、そうね、瑠璃色、かしら。
小さな花をたくさん付けて、可愛らしいの。
私が谷を覗き込みながら、綺麗と呟くと、あなたは取ってきてあげると言った。
駄目よ。危ない。いいの、遠くから見ているから。
私がどんなに止めてもあなたは聞かなかった。
服を掴んで止めたわ。でも、あなたは頑固だった。
知っていたわ。あなたのそういう一面。
谷の壁を伝って、あなたは降りて行った。
私の心臓は潰れてしまいそうだったわ。
谷の壁からせり出した少し広い突起にその花はあったの。そこに辿り着いて、あなたは花を摘んだ。
それを口に咥えて、あなたはまた登ってきた。
なんとか登って、崖から顔だけを覗かせて私に花を渡したわ。その時初めてあなたは私に向かって笑ってくれた。
落ちてしまうから、早く登ってちょうだいと頼んで、あなたはすぐに登り切ってしまおうとした。
けど、あなたが手を掛けていた所が、崩れた。
私は悲鳴をあげた。すぐに手を伸ばしたわ。けれど届かなかった。
あなたは少し下の所に辛うじて掴まった。でもそこも、見るからに脆そうだった。すぐに崩れてしまうのはわかっていたわ。
私は泣いた。涙があなたの顔にかかってしまった。
嫌だ、嫌だと何度も首を振った。
あなたは私をじっと見上げて、言ったわ。
僕を忘れないで。
それを言い終わって、岩が崩れた。
あなたはどんどんどんどん小さくなって、小さくなって、見えなくなった。
私はどうしていいのかわからず、そのままそこであなたを呼び続けた。何も返事は無かったわ。
蹲って泣き続けた。長い間そうしていたけれど、私はやがて泣きながら立ち上がって、あなたの絵と、あなたがくれた花を持って帰った。
悲しかった。それに、私があんなことを言わなければ、あなたは無理をしなかったかもしれない。
花を見ると、あなたを思い出す。辛いわ。捨ててしまおうかと思った。
けれど、気がついた。
あなたが最後にくれた言葉は何だったかしら。
この花があれば、決してあなたを忘れはしない。
だから私この花にこんな名前を付けたの。
あなたが最後にくれたこの花に、最後にくれた言葉を。
forget-me-not
僕を忘れないで。
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