はぁ、と白い息を空に向かって吐き出す。見えるのは、自分の拳と同じくらいの大きさの空だ。
さみぃ……と心の中で呟いて頭を下げた。
ここは、古井戸だろうか。明らかに人工的に掘り下げられ、壁には煉瓦が。大分古く、傷んでおり、手で簡単に剥がれた。それに手を掛けてよじ登ろうとしたら、痛い目に遭った。
こんなことなら、もっと厚着をしてくれば良かったと、後悔する。真冬の直中に防寒具と言えるものはマフラーのみ。こんな格好で、どれだけいれば死ねるのだろう、とふと思う。
かつては井戸であっただけあり、辺り一帯ジメジメと湿っていて、精神的に寒かった。不快だが、雪が無いだけましか。
「おーい、誰かー」
人がいることは全く期待していないので、自分しか聞こえないような声で助けを求める。何十回目かの挑戦だが、全戦全敗だ。
軍師として如何なものか。
体を丸め縮こまり、体温を逃がさないようにする。
さみぃ……と、再度心の中で呟く。
「……ぁ……」
遠くから、微かに。本当に微かに声が聞こえた。
気のせいではないかと、顔をあげて耳をそばだてる。
「……ザぁ……」
小さく、しかし確実に人の声がする。
心臓がドクンと脈打った。
「ヒューゴ?!」
声を張り上げてみた。
返事があった。
足音が近付いてくる。草原の民は音の方向を聞き分けるのが上手い。
「シーザー?どこだ?」
足音が更に近付く。
すぐ側の古井戸には気付いていないらしい。長い間、埋められることなく放って置かれたこの穴は、周りの草が成長し、見えにくい。
「ヒューゴ、止まれ!穴がある……」
シーザーが言い終えるか終えないかのうちに、頭上に影が射した。
「っうわあぁ!!」
色気の無い叫び声をあげながら、ヒューゴは中に降って来た。
シーザーは、受け止めようとしたが、そんな器用な芸当が簡単にできるはずもなく、クッションになるのに止まった。ヒューゴを抱き締める形で倒れ込む。
「……っててて……」
「ご、ごめん!シーザー、大丈夫か?」
シーザーの上のヒューゴは、大慌てで顔を上げて尋ねる。
オロオロと様子を窺い、眉が情けない形だ。
「う、腕が、折れ……た……」
ヒューゴの顔が強張った。
顔面蒼白というのは正にこのことだ。
「……って言ったらどうする?」
ヒューゴの表情が一転した。一瞬無表情を作り、次いで呆れの表情。
何も返事を返さずにもぞもぞとシーザーの上から退いた。
シーザーも身を起こし、ヒューゴの隣に座る。
「……だから止まれって言ったのによぉ」
「ごめん……」
しゅん、と塩を振った青菜のようになってしまった。
小さく溜め息を吐いて、肩を叩く。
「そんなに落ち込むことないだろ〜?」
こくり、頷いた。
そもそもなぜシーザーがここにいるのかと言うと、ヒューゴを探しに来たのだ。
ヒューゴがいない、と聞いた。シーザーはその時仕事をしていたのだが、いい加減疲れていて、ヒューゴを探しに行くと言って、制止の声を振り切って出て来た。
そして森に入り、今の状況に至る。
ヒューゴもまた、シーザーを探しに来たようだ。
ヒューゴが戻り、シーザーが戻らないことを不審に思った誰かが捜索を決したのだろう。
「ここから出なきゃな」
ヒューゴが勢い良く立ち上がった。
腰と腿の得物を抜き取り、煉瓦と煉瓦の隙間に突き立てる。
「やめとけよ。痛い思いするだけだぞ」
「やってみないとわかんないだろ?」
無駄だと思うがな、という言葉は押し込んで黙った。
二対の剣を交互に抜き、少し高い所に差し、抜いて差し、抜いて差し……。ヒューゴの腰がシーザーの目の高さまできた所で、煉瓦が崩れた。
「うわっ!」
今度は大した高さでなかったので、しっかり受け止められる。少しよろめいたが、結果オーライ。
脇の下に手を入れて、ヒューゴの顔を逆さまに見下ろした。
「ほら、言っただろ?」
唇を突き出して、不満がありありと見える。
シーザーの腕を振り払い、再び試み始めた。
途中までは上手くいくのだが、また失敗する。
「なぁヒューゴ、こうしようぜ」
落ちて来たのを受け止めた、そのままの体勢で言った。非常に不機嫌な顔でヒューゴはシーザーを見上げる。
平生から鋭い眼差しが、更に剣呑な光を帯びる。
それさえも愛しいのだから、大分末期に達している。
「俺がお前を肩車して、お前が上る……ってのはどうだ?」
「……わかった」
ヒューゴの足下に屈む。
躊躇して、ヒューゴは立ち尽くした。
急かすと、渋々といった体でシーザーの首をまたぐ。
ヒューゴの体重を支えて立ち上がれるか、いささか不安が残るが、やらねば示しが付かない。
貧弱な脚に喝を入れ、立ち上がる。ヒューゴは上手くバランスをとって、安定したまま上まで上がった。
「届きそうか?」
「無理」
即答だ。
届きそうな気配も無いようだ。
「……ダメか」
「うん……肩に立っていい?」
「できるか?」
「しっかり立っててくれよ」
シーザーは、壁面に手をつき、安定させた。
ヒューゴが動き、肩に足の感触がある。足に力が込められる気配がして、しばらく沈黙。背伸びまでしているようで、肩にかかる圧力が強くなった。
程無くして大きな溜め息が。
「……やっぱりダメか。降りられるか?」
「……」
返事が返ってこない。
もう一度呼び掛けると、小さな声で、頑張る、と聞こえた。
ヒューゴがバランスを崩さないように、シーザーはより体を安定させた。
脚が片方降りてきて、半分シーザーの肩に座り、そして残りの片方が降りてくる。安堵の溜め息が聞こえた。
「お前、こういうの得意そうなのにな」
「怖いものは怖いんだ!」
騒ぎ立てるヒューゴを適当にあしらって、屈み混む。ヒューゴが降りて行った。
どっと疲れて、二人揃って座った。
頭を壁面にもたれ掛けさせて口から息を吐く。
今、二人ができる限りのことはした。もう、助けを待つしかない。早く気付いてくれるのを祈るばかりだ。
なるべく体力を消費しないように、体温を逃がさないように、空気に触れる面を極力減らす。
ふと横を見て、隣に座るヒューゴが、常よりは露出は少ないものの、シーザーよりも寒そうな格好なのに気付いた。あまりその様な態度は見せないが。
「ヒューゴ」
膝を抱えたまま、首だけでこちらを見る。
その首にマフラーをかけてやった。
一瞬驚いたような顔をして、しかしすぐに眉を寄せる。
「いい。いらない」
「なんで?」
「寒くない」
マフラーを外して、突き出してくる。
シーザーはそれを受け取り、しばらく手元を眺める。
いくらも間を置かず、再びヒューゴの首にマフラーをかけて、自分の首にも回した。長さが足りないのでぴたり寄り添う。
ヒューゴがぎょっとして振り向いた。
「な、なんだよ?」
「二人の方が暖かいだろ?」
ヒューゴは必死で言葉を探しているようだったが、何も口に出さずに終わった。
肩を抱くと、抵抗無くもたれ掛かった。むしろ、自ら擦り寄ってくる。
「ヒューゴ、寒いんだろ?」
「寒くない」
じゃあなんでそんなに引っ付くんだ、という言葉は飲み込んだ。
しばし間を置いて、名を呼ぶ。動くと寒いためだろう、ヒューゴは声だけで返事をした。
投げ出した己の脚の、膝を叩いて示す。
「なに?」
「ここ来いよ」
「な、なんで?!」
「寒いから」
「だからって、なんで?!」
「早くしろよ」
頑なな態度で言うと、ヒューゴはシーザーを見上げ、そして動いた。マフラーの長さが許す範囲内で動いて移動し、シーザーの脚に跨がる格好で座る。
それから先、どうしたらいいのかわからない、という体で居た。
肩を引き寄せて、自分の上着で包んでやる。
布越しに、冷たく冷えたヒューゴの肌を感じた。
「……暖かい」
肩に額を乗せたヒューゴから、幸せそうな声が聞こえた。
やっぱ寒かったんだろ。
心の中で呟いた。
このまま凍死も悪くない。
二人抱き合って死ねるなら本望だ。
こんなことを言ったら、ヒューゴはきっと本気で怒るから、死ぬなんて簡単に言うなと、怒るから、これもまた己の心に止めておく。
「寝るなよ。寝たら死ぬぞ」
「うん……寝ない……」
全く信用ならない声で返事が返ってきた。

* * *

「おーおー、お熱いこって。これじゃあ凍える心配は無さそうだな」
屈んで穴を覗き込み、ジョアンが気怠げに言った。
セシルが同じように穴を覗き込んで、瞳に憂いを纏った表情で続ける。
「ジョアンさん!そんなこと言ってないで、早く助けてあげましょうよ!」
「セシル、お前はコレの邪魔をできるか?」
セシルは疑問符を頭上に幾つも浮かべて首を傾げる。
何でもねぇよ、とジョアンは首を振った。
「おーい、軍師殿、ヒューゴ殿!生きてるんだろ?起きろよ。迎えがきたぜ」
先に動いたのはヒューゴだった。
寝ぼけた目でジョアンを見上げ、辺りを見回して状況確認。大慌てで軍師から離れた。
軍師は、突然寂しくなった懐に抱くものを求めて、寝ぼけた頭で再びヒューゴを捕らえたが、痛烈に拒否された。
「ジョ、ジョアンさんに、セシル?どうしたんだ?」
「いやぁ、お前らの帰りが遅いんで、捜しに来たんだけどよ」
「城の近辺なら、私たちが詳しいからって」
ヒューゴは愛想笑いを浮かべて、まだ追いすがるシーザーを払い落としている。
「今、ロープ下ろしますね」
セシルが、備えていたロープを穴の中に垂らし、片側を木にくくり付けた。
なかなか器用に巻くことができずに苦闘していると、ジョアンがいとも簡単に巻き付けてしまった。
「あ、ありがとうございます!」
ぴょこんとお辞儀をすると、兜の、紅色した羽飾りが大きく揺れた。
上でそんなやり取りがされている間、ヒューゴは、シーザーの目を覚まさせるのに苦労していた。
「シーザー、ちゃんと起きろよ!」
「んー……」
「ちょ……どこ触ってんだ!」
鈍い音と、苦痛を訴える声が穴の底から聞こえた。
ジョアンは、このままここで昼寝でもしようかと考え、セシルは二人が喧嘩していると思い込み、オロオロと穴の中を見守っていた。

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