「シーザー?」
部屋を出ると、そこに居るはずのシーザーが居なかった。
何となく、嫌な予感がした。
少し遅くなってしまったから、ただその辺りをフラフラとしているだけならいいのだが。
「シーザー!どこだ!?」
周辺を探しても、見当たらない。
そういえば、人も見当たらない。
誰もだ。
「ヒューゴ!」
振り返ると、クリスが駆け寄って来た。
その表情を見ると、緊急の事態なのだということは容易にわかった。
「何か……あったのか?」
どこか、確信を持って訊ねた。本当は何が起きているのか、わかっていた。
「今すぐに外へ。シーザーが……」
それから後は聞かずに駆け出した。

* * *

外には、大勢の人が集まっていた。
その中心にシーザーがいるはずだ。
人を掻き分け、シーザーを目指す。
怒鳴り声が聞こえてきた。
「殺して!殺してよ!こんな……こんなバケモノ、殺してしまえばいいじゃない!」
若い女の声だ。
誰だかわからない。
「待て。この城から追い出して、入れないようにすればいいだろう」
ルシアの声だ。
「家畜が襲われた時から、警戒はしてたんでしょ?!それでもこんなことになったんじゃない!」
「だが、この獣がやったとは限らない」
「それじゃあ、その口の血は何よ!どっちにしろ、猛獣を人と住ませるなんて間違ってる!それに、これは獣なんかじゃない……魔物よ!」
「……その狼を外に出せ。警戒を強化しろ。サナ、その女性に付き添ってやれ」
「ええ」
ルシアが戻ってくるようだ。
シーザーは群集に背を向け、城の外に向かって歩き出した。
「……誰もやらないのなら、私がやる!!貸して!」
女は、近くにいた男が持つ弓を奪い、構えた。
止めようとするサナを振り払う。
周囲の者は動かない。
彼らにとって、害為すかもしれない……為したかもしれない、それはわからないが、たった一頭の獣の命など、消えてしまっても仕方無いものなのだ。
罪の無いかもしれない命を積極的に奪うことはできないが、誰かがやるのなら止めない。罪があるのかもしれないのだから。
シーザーは振り返ったが、それと同時に女は弓を放った。
「シーザー!」
その弓を受け止めたのは、ヒューゴだ。
自らの体で受け止めた。
幸い、急所ではなく肩に当たった。
膝の力が抜け、屈み込んだ。
周りで皆が何か言っているような気がしたが、そんなことはどうでも良かった。
背後から、獣の足音が聞こえた。
「シーザー!待って!」
慌てて抱き止める。
シーザーは牙を剥き出しにして、威嚇の体勢をとり、唸り声と吠え声を発している。
その様は本物の狼のようで、ヒューゴは初めてシーザーに恐怖を感じた。
「来なさいよ!私を殺せば、確実にお前は殺される!私はあの子と同じ場所へ逝ける!さぁ、殺せ!!」
女はシーザーに近寄った。
シーザーはもの凄い力でヒューゴの腕を解こうとする。
その身体が、また成長を始めた。
無理な速さに骨が追いつかず、悲鳴をあげている。
「シーザー……!ダメだ!シーザー!!」
「ほら、見なさい!あれはバケモノよ!」
群衆が、ざわめいた。
シーザーは我を忘れ、獣に身体を支配されかけている。
このままでは、シーザーの身体は成長しきってしまう。
なんとかしてシーザーを落ち着けさせなければ……。
ヒューゴはシーザーの目の前に腕を差し出した。シーザーは反射的にその腕に噛み付く。
「……っ!」
シーザーの動きが止まった。
成長も止まる。
時間も止まっているように感じた。
最初に時が動き始めたのは、ヒューゴだった。
「皆、オレは何があったのかは知らないけど、この狼は絶対に何もしていない」
「……どうしてそんなことが言えるのよ」
あの、女だ。
「……これは、シーザーなんだ」
「そんなこと……」
「シーザー・シルバーバーグなんだ」
「……?」
「訳あって今はこんな姿だけど、本当にあのシーザーだ。信じてくれ」
「そんな話、信じられるわけがないじゃない!」
「本当です」
サナが前に進み出た。
「信じられる話でないのはわかっていますが、それが事実です」
「それじゃあ、その口の血は!?何でそんなものが付いているのよ!」
「……あの、おれ、その狼ともう一頭別のが争ってるのを見ました」
群衆の中の一人が小さな声で言った。
全員の視線が彼に集中する。
彼はそれに竦み上がってしまった。
「じゃあ……あんたは見てたの……?あの子が襲われてるのを、黙って見てたの?」
「す、すまない……恐ろしくなって……」
「どうして……何で助けてくれなかったのよ!」
「すまない……!」
「けれど、彼は助けようとした。そうでしょう?シーザー」
サナがシーザーに視線を向けた。
シーザーはヒューゴの腕に牙をたてたまま、硬直している。
「じゃぁ……じゃあ私は恩人を殺そうと……」
女は真っ青になってシーザーを見、そしてヒューゴを見た。
「私、私、なんてことを……」
「自分を責めないで、ヨキのお母さん」
「……?」
自分のことを知っていることに驚いたようで、彼女は目を見開いてヒューゴを見た。
「瞳が、シーザーと同じだ。優しい緑色。ヨキが、シーザーの目はお母さんの目と同じだって話してくれた」
ヨキの母親は、目にいっぱい涙を溜めて、ヒューゴを見つめた。
「強く生きて下さい。あなたは出来るはずだ」
「あ……ぁ、ああぁ……」
泣き崩れ、座り込んだ。
それをサナが寄り添い、その場から連れ去った。
ヒューゴはそれを見送り、シーザーに視線を移した。
「シーザー……口、離して」
シーザーはゆっくりと口を離し、そのまま倒れた。
精神的にショックを受けたことと、身体の無理な成長のせいだろう。
ヒューゴの腕から血が溢れ出す。
何人か駆け寄って来て、すぐに医務室に運ばれた。

* * *

シーザーは力一杯咬んでくれたようで、なかなか血が止まらなかった。
それをやった本人は、気を失い、傷の手当てを受けた後、ヒューゴの部屋に運ばれた。
ずっと目を覚まさなかったとしたら、日没を迎えた時に困る。人の出入りの激しいここでは。
弓の傷の方は、ちゃんと訓練をしていない女性の力だったので、酷い傷にはならなかった。
左肩は弓の傷、右腕には咬み傷。
病人が着る、前の開いた服を裸の上半身の上に羽織り、肩と腕には包帯がぐるぐると巻かれていて、かなり重症の怪我人のように見えた。
トウタにそのまま言うと、困った人だと呆れられた。
手当てをされている間、今回の事件について聞いた。
ヨキが獣に殺されたのだという。
そして、ヨキの遺体と共に、口を血で汚したシーザーがいた。誰もがシーザーの仕業と考えた。
シーザーはササライの部屋の前にいたはずだが、なぜヨキと居たのかはよくわからない。
ヨキがシーザーを見つけ、外に誘ったのかも知れないし、シーザーが襲われるヨキに気付いて助けに行ったのかもしれない。
手当てが終わったので、シーザーの様子を見に行くことにした。
動くなと言われたが、大丈夫だと言い張り、付き添いを伴うことを条件で許してもらえた。
付き添いを誰にするかと話し始めた時だ。
「私が」
そう言ったのは、ヨキの母だった。
まだ目が赤い。
「ヒューゴ様にも軍師様にも、私はまだ何も言っていないから」
それならば、日が沈んでシーザーが話せるようになってからが良いかとも考えた。
が、もしそれ以前にシーザーが目を覚ましたら、側に居てやりたかった。
非合理的になるかも知れないが、それがヒューゴの希望だった。

* * *

部屋に入ると、シーザーはまだ眠っていた。
「ごめんなさい、ヒューゴ様。私、とても酷いことをした」
「いいんです。仕方無かったんだから」
「……ありがとう」
ヨキの母親は、シーザーにそっと近寄り、恐る恐る手を伸ばした。
ヒューゴも隣に控える。
顔に少し触れ、背を撫でた。
滑らかに背を滑っていた手が、途中で止まる。
「……酷い傷」
ヨキを襲った野犬と争った時の傷だろう。
撫でられた刺激で、シーザーは目を覚ました。
「起きた?」
シーザーは寝ぼけた目でヒューゴを見、目が合った途端に跳ね起きた。
おろおろとヒューゴの様子を窺う。
「大丈夫だよ。大した傷じゃない」
シーザーは深くうなだれてしまった。
「それより、シーザー。ヨキのお母さんが来てるよ」
シーザーはゆっくりと顔を上げ、彼女を見上げた。
その瞳には、複雑な色が浮かんでいる。
同じようで、微妙に違う優しい二対の碧の瞳の視線が交わった。
「何と言ったらいいのか……」
ヨキの母親は、深呼吸を一つした。
そしてまた口を開こうとするのを、ヒューゴが止めた。
「もう少し待って。もうすぐ日が沈む。そうしたら、シーザーは人になるから」
「え……?えぇ……わかったわ」
彼女はヒューゴの言を理解できていないようではあるが、特に何も言わなかった。
シーザーはベッドから飛び降りて隣の執務室に向かった。
ヒューゴもそれに続く。
「どこに行くの?」
「あの……シーザー、裸だから……少し待ってて下さい」
彼女は苦い微笑みを浮かべて頷いた。
ヒューゴは執務室に繋がる扉を開け、シーザーを中に入れると自分はシーザーの服を取りに、シーザーの部屋に向かった。
すぐに戻って中に入り扉を閉めると、窓の外を見た。
ちょうど太陽が沈むところだった。
シーザーの体が変化し始める。
それは何度見ても痛々しく、心が痛んだ。
漸く人間に戻り、シーザーは立ち上がってヒューゴを見た。
シーザーの体は、傷だらけだった。
深さ、大きさは様々だが、酷い傷だ。
獣の身体の時には毛皮のせいで、よくわからなかった。
「シーザー、それ大丈夫か?」
「それよりお前だ」
シーザーはつかつかと歩み寄り、ヒューゴの腕をとった。
そうして両の手で包み込む。
「ごめんな……」
「……シーザー、ヨキのお母さんが待ってるよ」
「そうだな」
服を身に纏い、ヒューゴから先に部屋を出た。
ヨキの母親はベッドに静かに腰掛けていた。
現れたシーザーを見て、彼女は悲痛な顔をした。
シーザーの肌には、服で隠せない部分にも傷があった。
彼女は立ち上がってシーザーに近寄り、しばらく傷を見つめ、俯いた。
シーザーは冷徹にも見えるような無感動な顔で彼女を見下ろしている。その表情からは、何も読み取れなかった。
激情を隠しているかのようだ。
ヨキの母は、腰を曲げ、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
「……そんなに気を落とさないでくれ。俺の方が滅入る」
シーザーは肩を竦め、溜め息を吐きながら言った。
「俺も謝らなきゃならない。ヨキを、守れなかった。許してくれ」
「いいえ。そのことには感謝しています。有難う。そんなにしてもらって、あの子は幸せだわ」
どこか遠くを見る目で彼女は語った。
「それから、俺達はまだ謝らなきゃならないやつがいる」
「えぇ、そうね」
二人が急にヒューゴに視線を向けた。
「……オレ?」
「当たり前だ」
「もういいよ。さっき二人とも謝ってくれた」
「もう一度、謝りたいの」
強いその語調は、有無を言わせぬものであった。
ヒューゴはわかったわかったと頷き、居住まいを正した。
「ヒューゴ、すまなかった」
「ごめんなさい」
深々と頭を下げられ、少し戸惑った。
年上の者に頭を下げられるのは、何となく居心地が悪い。
「……もういいから、顔を上げて」
二人は面を上げた。
「……もう暗くなります。戻った方が……」
ヨキの母親に向かって言うと、彼女は困った笑顔を作った。
「私はあなたのお目付役よ」
「あ……」
「それは俺が引き継ごう。あんたは早く帰った方がいい」
彼女はシーザーの顔を見た。
シーザーが頷くと、一言礼を言った。
「送ろうか」
シーザーが言った。
薄暗くなってきた時分に、女性を一人で帰すのはあまり紳士的ではないだろう。
それに、今は野犬も出ている。
「いいえ。怪我人にそんなことをさせられないわ」
「じゃあ、必ず誰かに頼んで下さいね」
彼女は手を振って部屋を出ていった。
扉が閉まった瞬間、シーザーがヒューゴを後ろから抱き締めた。
「……どうしたんだ?」
シーザーは肩に額を乗せて、何でもないと首を振って答えた。
したいようにさせてやろうと思った。
半分夜、半分昼の曖昧な光が部屋に降り込んでいた。

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