窓から、城の壁の穴から、朝日が射し込む。
その生まれたばかりの光の中、ヒューゴは歩いていた。大して広くも長くもない廊下を、彼の恋人(彼に言うと否定するであろうが)の部屋に向かう。
朝の会議があるのだ。
朝に弱い彼を起こしに行かなければならない。
自分が起こしに行くと、必ず何か悪戯を仕掛けられるのであまり気が進まないのだが、今は自分以外に手が空いていないので仕方無い。
部屋の前に辿り着き、ノブに手をかける。
ノックは必要無い。どうせ寝ていて聞こえない。
起こしてからの激しすぎるスキンシップを思って鬱々としながら、グッと押して開いた。
ベッドに視線を向けるが、そこには膨らみが無い。その代わりになぜか仔犬が一匹、部屋の中央に。
犬は、こちらに気が付くと、走り寄ってきた。
目の前で、行儀よく座って見上げてくる。
「お前、どこから入ったんだ……?」
紅い犬だ。こんな毛色は初めて見た。この色は、誰かを思い出させる。
そう、こんな髪をした人間がいた。
大きさは、小さい。子供なのだろう。表情もあどけない。
耳は垂れておらず、尾は長い毛に覆われてふっさりとしている。全身の毛も、長い。……と言っても、長毛種とは呼べないだろう。
犬というより、狼に近いかもしれない。
屈んで頭を撫でてやると、目を細めて膝に顎を乗せてきた。
この毛の手触りも、誰かに似ている。
室内に目的の人物がいないこと、密室であるはずのこの部屋に仔犬が紛れ込んだこと、この犬の毛色、触り心地、全ては一つのことで説明できてしまう。
先程から頭に浮かんでいるそれを、ヒューゴは気付かない振りをした。
犬は、撫でられることに飽きたのか、頭を動かしてヒューゴの手を払うと、前脚を膝に掛けてヒューゴを見つめる。
瞳は温かい緑色だ。
その瞳は何かを伝えようとしているような気がした。
「……やっぱり、シーザー……?」
訊くと、犬は明らかに首を縦に動かした。
偶然犬が首を動かしたのではなく、意図的に見えた。
「なんで犬なんかになってるんだ?」
妙に冷静な質問をしてしまった。
予想していたので、驚きは無かった。
犬は……犬の姿をしたシーザーは、首を傾げた。わからないらしい。
「……まぁいいや。とりあえず、朝の会議には出られないね。シーザーは病気だとでも言っておくよ」
そう言って立とうとすると、シーザーは一声吠えた。
「なに?行くのか?」
こくり、と頷いた。
この姿で何ができるというのか……。しかし、本人(犬)が行くと言うのだから仕方無い。
「……じゃあ、行こう」
外に出ようとすると、またシーザーが吠えた。
今度は何だと振り返ると、膝に飛びかかってくる。
「……まさか、抱いて行けって……?」
笑えるはずのない犬の顔が、笑ったように見えた。
「な、何言ってるんだよ!ちゃんと自分で歩けよ!」
つい大きな声で怒鳴ると、シーザーはヒューゴの膝から離れ、回れ右をして陽の当たる所まで歩いて行き、座り込んでしまった。
抱かないなら行かない、と言いたいらしい。機嫌を損ねたようだ。
一度こうなると、後始末が大変なのはよくわかっている。
大きな溜め息を一つ零し、ヒューゴはシーザーに近寄った。
シーザーは、伏せたまま目を開けてヒューゴを見る。言葉が扱えれば、ぶっきらぼうな口調で『何だよ』ときいてきただろう。
そっと身体の下に手を差し込み、抱き上げた。
大きくないので、抱くのは苦ではない。ただ、コレはシーザーだと思うと何とも複雑な気持ちだ。
「これでいいんだろ?」
少し怒ったような声で言うと、シーザーは尾を振った。
真横にあるシーザーの顔が動いたと思うと、温かく濡れたものが頬をなぞった。
驚いて横を見ようとして、やめた。それでは彼の思う壺。
犬に唇を奪われるのは御免だ。……人間なら良いのかと言うと、そんなことは無いのだが。
ふと、思い付いた。ほんの少し、小さな仕返しをしてやろう。
「……シーザー、今シーザーの身体を支えてるのはオレだって忘れてない?」
耳の横で、くうぅー……と可愛らしい声が聞こえた。
歩き出すと、シーザーは尾をしゃらりしゃらりと揺らした。
「面白い?」
尾がヒューゴの質問に答えた。
抱かれている状態では様々なことが違うのだろう。
そんな些細なことで喜ぶなんて、小さな子供のようだ。
可愛いと言ったら、怒られるだろうか。

* * *

中に入ると、やはりまず腕の中の犬について尋ねられた。
「本当のこと言ってもいい?」
肩で頷く気配がした。
了承を得て、その場に居る者に真実を話すと、全員が奇妙なものを見る目でヒューゴを見た。
証明する為に、シーザーに幾つか質問させることにした。
ヒューゴは、シーザーを皆の顔が見えるように抱き直した。
そこにいたルシアや、クリス、その他各団体の代表者一人一人が一つずつ質問を繰り返した。
シーザーは全てに答え、それで皆納得したようだ。
「信じられないけれど、その犬は本当にシーザーなのね」
アップルが、困りきった顔で呟いた。
犬の身体では意思疎通もうまくいかない。筆談も不可能だろう。
軍師として、それは非常に困る。
「ところでヒューゴ、座ったらどうだ?シーザーを抱いていつまでもそこに立っている必要は無いだろう」
「シ、シーザーを抱いてるのは、シーザーがこの身体に慣れてなくて上手く歩けないみたいだったからで、だから……」
「わかったから、とにかく掛けなさい」
訊かれてもいないのに、明らかに不自然な態度で答えてしまった。
自分でも、顔が赤いのがわかった。
それをなるべく見られないように、自分の席についた。
シーザーを隣の椅子に座らせてやる。
「シーザーのことは、また後で話すことにして、とりあえずいつも通り会議をしましょう。……このことはまだ他の者には黙っておきましょう。シーザーは病気、ということにして」
アップルが今日のところは軍師代行を務めるようだ。
シーザーはしばらくは大人しく座っていたが、何か不満なようで、ヒューゴの膝の上に移動しようとした。
こんな場で、一体何を考えているのかとシーザーを押し返したが、懲りない。
(なんだよ?!こんな所でそんなことしなくてもいいだろ?)
抑えた声で言うと、シーザーは不機嫌な顔をした。……ように見えた。
机に向かい、それを鼻先でつつく。
(……机の上が、見えないのか?)
首が縦に振られた。
小さく溜め息をつき、ヒューゴは膝を明け渡した。
シーザーはいそいそと膝に乗り上げ、机に向かった。
アップルは地図を広げ、何かの作戦を説明している。
ヒューゴにはあまりよくわからない。
理解しようと努力はするのだが、会議の後にシーザーに教えてもらってやっとわかる。それがいつもだ。
しかし今はシーザーには教えてもらえない。
シーザー以外にきくのは、自分の無知を教えるようで嫌だ。
だが、やはり理解できなかった。
後でアップルにでもきくしかないか、と考えていると、膝の上のシーザーが動いた。
そのまま机の上に行ってしまう。
「シーザー?」
シーザーは、何やら前脚で地図上のいくつかの場所を示したり、叩いたりしている。
叩く度に、たしたしと間の抜けた音がする。
アップルはそれでわかったらしく、深く頷いた。
周りの大人達も頷いている。
ヒューゴにはやはり意味がわからないのだが。
シーザーは幾つか質問を受け、それに小さな前脚で答えて、またヒューゴの許へと戻って来た。
膝の上で、背中をヒューゴに預ける格好で抱いてやる。
そんなぬいぐるみのような格好でも、シーザーは嫌がらなかった。
「……犬でも、ちゃんと軍師できるな」
シーザーは、特に何も反応しなかった。

* * *

会議が終わって、またシーザーを抱いて部屋を出た。
とりあえず、シーザーの部屋に行く。
中でシーザーをベッドの上に下ろした。ヒューゴもベッドに腰掛ける。
「それで、今日はどうする?その体じゃ仕事もできないし」
背後に居たシーザーの顔が、突然脇の下から突き出てきた。
その状態でじっと見てくる。
何となく、シーザーの言うであろうことは予想していたが……。
「オレと、来る?」
シーザーの尾がおこした風が、肌を掠めた。
勢いよく振っているのは、見ずともわかる。
外に出ると、この珍しい毛色の犬はすぐに人気者になった。
「わぁ〜、綺麗な犬〜!!ヒューゴ様、なんて名前なの?」
「……シーザー、だよ」
「シーザー?軍師様と同じお名前なんだね」
「うん、毛の色が似てるだろう?」
「そっか!」
子供は無邪気に笑って、シーザーを撫でている。
シーザーは、意外なことに大人しく撫でられている。案外子供は嫌いでないらしい。
他にも、たくさん子供が集まってきた。
小さな群集が出来上がり、子供独特の甲高く細い声が響いた。
ゼクセン人の子供も、グラスランドの子供も入り混じっている。
大人達にはまだ確執が残っているというのに、子供はそんなことには全く無頓着だ。
楽しいことは皆で楽しむ。
大人達も彼らのようにすることができれば、どんなにか良いだろう。
シーザーはアイドル状態で、もみくちゃにされていた。
さすがに可哀想に思えて、子供達に一言断って抱き上げた。
「え〜?もう行っちゃうの?」
「うん、ごめん。また明日遊ぼう?」
「……はぁい。ばいばーい」
それぞれシーザーに別れを告げながら、子供達は散っていった。
それを見送ってから、ヒューゴは歩き出した。
腕の中のシーザーが、小さな頭を動かしてヒューゴを見上げた。
「ジョー軍曹と約束があるんだ。付き合ってくれる?そんな毛の色だし、一人でいると危ないだろ?」
尾が腕をさらりと撫でて、シーザーは頭をヒューゴの胸に預けた。
最近ずっと稽古をサボっていたので、そろそろジョー軍曹も怒るだろう。
本当はシーザーの今後を考えたいのだが、ジョー軍曹に事情を説明できない以上、それを優先させることはできない。

* * *

ジョー軍曹は、近くの森の少し開けた場所で待っていた。
フーバーも一緒だ。
「今日は来たな。……その犬は?」
「あぁ、迷い込んで来たんだ。オレに懐いたみたいだから、オレが世話するよ」
「そうか。名前はもう決めたのか?」
「うん、シーザー。毛の色がシーザーに似てるだろ?」
「あぁ。珍しい色だ。そんな色は初めて見たな」
うん、と答えて、ヒューゴはシーザーをフーバーの背中に乗せた。
「フーバー、コレは食べちゃダメだぞ?」
「キュウウゥ……」
シーザーが、コレとは何だという顔で見て来たが、特に気にしない。
不安定なフーバーの背中の上でうまくバランスをとり、シーザーはフーバーの首まで移動した。
フーバーの頭の上に自分の頭が乗るようにして、その場に伏せる。
なかなか、微笑ましい光景だった。
フーバーの羽根は、ヒューゴが毎日ブラッシングしてやるおかげで、サラサラして気持ちよい。更に、フーバー自身の体温で、触れると適度に温かい。
昼寝好きのシーザーには、絶好の場所だろう。
フーバーが嫌がったりしないのを確認して、ヒューゴは鍛錬に打ち込むことにした。

* * *

「うっ……!」
ヒューゴの持っていた剣の代わりの木の棒が跳ね飛ばされた。
「どうした?ヒューゴ」
「ごめん……ちょっと考え事してて」
「……今日はこれで終わりにしよう。気が散ってるんじゃ仕方無い。……悩み事か?」
「ううん……ごめん軍曹。まだ言えない。けどそのうち言うから。今日はもう部屋に行くよ」
軍曹は静かに頷いた。
ヒューゴはフーバーに近寄り、シーザーを抱き上げた。
意外なことに、シーザーは眠っていなかった。
大きな真円の瞳で、じっとヒューゴを見ていた。
暇さえあれば(無くとも)どこでも寝ているのに。
ずっと見られていたのかと思うと、恥ずかしいが嬉しかった。
「その犬は随分大人しいな。そんなに幼いやつは、動き回ってないと落ち着かないはずだろう。それに、フーバーを見ても怯えもしない。大物なのか、冷めているのか……」
「きっと大物なのさ」
そう返して、ヒューゴは部屋に向かった。

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