雨が降っていた。
雨というだけで気分が重くなるが、冬の雨は尚更で、寒さが余計身に染みる。それでも夏の蒸す雨よりはいくらかマシだと、ヒューゴは思うのだが。
暗くなった道を一人で歩く。もうすぐ自宅が見えるはずだった。
漸く見えてきた家を見て、足の動きが早まる。
ところが、アパートの前に在る人影に気付いて止まった。
シーザーと、もう一人は髪の長い女性だ。癖の無い真っ直ぐの髪を下ろしているが、随分色が薄いようだ。はっきりとどんな色なのかはわからない。
何やら話し込んでいるらしいのだが、傘もささずにその場に立っている。ヒューゴは何となく声をかけられず、目立たない所から様子を窺っていた。
しばらくして、女性はどこかに行ってしまった。シーザーは自宅に戻って行く。
すぐには後を追わず、適当な時間を置いてからヒューゴも帰った。
「……ただいま」
戸を開けて声をかけると、奥から物音がする。
靴を脱いだ頃にはシーザーが近くにいた。
「おかえり」
シーザーの顔を見上げた。いつもと変わらない。
髪と服が、まだ少し濡れていた。
「濡れてるよ?どうしたんだ?」
「ああ……ちょっとそこまで行って来たから」
「ものぐさだな、傘もささないなんて」
シーザーは笑っていた。
先程の女性のことは話すつもりは無いらしい。
部屋に入って、湿った服を着替える。
今日の食事はヒューゴの当番なので、台所に向かう。
あるものを適当に合わせてしまって、料理にした。火にかけて煮込めば完成だ。
鍋の中を見つめながら、先程の女性のことばかり考えている。
シーザーを疑ったりはしていない。だがやはり、気になる。シーザーが話さないのが余計におかしい。
様々に想像をして、考える程に気分が悪くなっていく。
コンロの端に置く両手に、強く力を込めた。
その瞬間、不審な音がした。ボッ、と。
意識を引き戻した時には、事が起きた後になってしまっていた。ガスの不都合か何かで火がおかしくなったのだろう。炎が右手を掠るのが一瞬だけ見えた。
「あつっ……」
「どうした?」
すぐにシーザーが来た。
右手を抱えていると、状況を察して流水の中に手を引かれる。
「痛むか?」
「大丈夫みたい」
水の中から引き出して、シーザーは右手の様子を見る。そのシーザーの顔が、驚愕を表した。
そんなにひどい火傷だったのかと不審に思う。水に触れていない今でも痛みは感じないというのに。
「シーザー?そんなにひどいのか?」
「……いや、不思議な形に火傷してるんで、驚いたんだ」
「なに?」
自分で手を見てみる。シーザーが見ていたのは手の甲だ。
確かに、面白い模様があった。まるで炎だ。
不自然な程に綺麗だ。
「……なんだコレ」
「わかんねえよ。偶然としか考えられねえだろ」
「でもオレ、痛くないし火傷してないと思うんだけど」
「痕だけついたんだろ」
いまいち納得できない。
自分の右手にできたおかしな痣を見ながら、首を傾げた。
「本当に痛くないんだよな?」
「痛くないよ」
「なら気にすることないだろ。飯、食おうぜ」
「うん」
食事をしてシーザーと話しながらも、女性と、火傷のことばかりが気になっていた。

* * *

ヒューゴは草原に立っていた。
爽やかな風が吹き抜けて行って、様々な匂いを運んでくる。
動物の匂い、草の汁の匂い、花の香り、土の香り、いくつも混ざっている。
空は青い。雲がいくつか浮かんでいる。
草を踏む音がして、振り向く。
シーザーが微笑んでいた。
手を伸ばしてくるので、それを取ろうとヒューゴも手を伸べる。
触れようとした瞬間、伸ばしていた自分の右手から炎が放たれ、シーザーを包んだ。ヒューゴは悲鳴を上げて手を引いた。
気付けば、足下からも火が広がっていく。
だが、不思議とヒューゴは熱くも苦しくもない。
シーザーはいつの間にか居ない。
恐ろしくなって、駆け出した。だが、駆けて踏み出した足から炎が生み出されて、草原に火を広げてしまう。
どうすることもできず、ヒューゴはしゃがみ込んだ。炎が辺りを燃やす音だけを聞いていた。
その音が、段々と小さくなっていく。ついには消えてしまって、顔を上げた。
色を無くした世界が広がっていた。
シーザーを呼ぶ。だが、声が出なかった。
何か無いかと、必死で周りを見回す。唐突にシーザーが目の前に現れた。シーザーは、いつものシーザーだった。グレーの世界に鮮やかすぎる色彩が目に痛い。
心配そうな顔をしていて、ヒューゴに手を伸ばす。頬を撫でる感触を感じて安堵する。
シーザーの口が動いた。
「ヒューゴ」
確かにそう言っているのに、ヒューゴには何も聞こえない。
聞こえない、と言った自分の声も聞こえず、ヒューゴは焦る。
シーザーの手を掴んで何かを叫ぼうとして、違和感に気付く。
自分が今握っている彼の手を見ると、ボロボロと崩れていく。
叫んで手を離した。崩れる端から色を無くしていく。
やめろ、やめてくれ!
精一杯叫んだが、やはり聞こえない。
炎がヒューゴを包んだ。この炎だけは、音も色も失っていない。
もっと炎を、と思えばそれだけ大きくなっていった。
炎だけが味方のような気がした。

* * *

目の前には、見慣れた自宅の天井が広がっている。
薄暗いが、確かに色味がある。
涙が目尻を伝っていた。
右手が熱い。やはり少しは火傷があったらしい。
隣りのシーザーを起こさないようにベッドを抜けだし、水で冷やした。
冷やしながら涙を拭う。
嫌な夢だった。
「痛むのか」
シーザーが、少し離れた壁に寄り掛かって立っていた。
「起こしちゃったのか、ごめん。やっぱりちょっと焼けたのかな」
「よく冷やしとけ」
「うん」
しばらく沈黙が続く。
水を止めて手を拭いた。
「……何か、夢でも見たか?」
「なんで?」
「うなされてた」
「うん、ちょっとね」
「話してみろよ」
話してもつまらないだろうに、と思いながら、ヒューゴは話した。
「オレがシーザーに触ろうとしたら、シーザーも周りも燃えたり、周りが灰色になってシーザーが今度はボロボロ崩れたり。……変な夢だろ?」
「……そうだな。でも夢だ」
夢、確かにそうだ。
あまりにリアルで、実際のことのように感じていた。
だからシーザーの言葉は真っ直ぐ心に入り込んだ。
それに、話してみたらあまりに目茶苦茶な話だった。
「寝よう。まだ夜中だ」
シーザーの言葉に頷いて布団に入ると、シーザーが抱き締めてくれた。
すぐ側に彼の存在を感じていると安心して眠れそうだった。

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