窓から柔らかく日射しが差し込む。照らされる人影は二つ。女性と少年だ。
双方椅子に腰掛け、卓上の紙に目を向けている。
少年の方、ヒューゴは眉根を寄せて自分の髪の中に指を入れている。その指を緩慢に紙面に置いて傍らの女性、アップルに示した。
「ここで正面からぶつかっても突破はできると思うんだけど」
「そうね。力押しでもいけると思うわ。でもせっかくここに森があるじゃない?少し退きながら誘き寄せた方が確実じゃないかしら?」
「あ、本当だ。そっか。この構成なら平野よりも森の方が得意な地形だもんな……」
ヒューゴは盛大に溜め息を吐く。
「こんなに簡単なのでもわかんないんだな……」
「本当に正しい答えなんて無いもの」
「けど、より良い答えはあるだろ?」
アップルは困った笑顔を返す。
「それを覚えるためにこうしている訳でしょう?失望するのは早いんじゃないかしら」
ヒューゴは真面目な顔をして頷いた。
周囲の人間は、ヒューゴが軍術など覚える必要は無いと言う。作戦さえわかっていれば問題無いと。
だがヒューゴはそれでは不足だと思う。団体の代表を勤める以上、自分が指示を出さなければならない時もあろうし、作戦の本質をわかっていなければ結局理解していないも同じ。
ヒューゴは本格的に学びたいが、自分にそれだけの能力と時間が無いことをわかっていたので、簡単にでも学ぼうとアップルに実戦的な教えを請うたのだ。
シーザーが決める作戦を理解するのに、シーザーの師であるアップルに学べばそつは無いと思った。
大きく息を吐き出す。
「難しいー、ていうかややこしいよー」
ヒューゴは一度大きく伸びをした。
「アップルさん、こんな難しいことを極めるなんてすごいよね」
「私も極められたわけではないけど……そうかしら」
「うん。……シーザーは、なんで軍師になろうと思ったんだろう」
シーザーの名を出すのが少し躊躇われた。何となく照れ臭くて。
つい先日想いが通じたところで、この感情に慣れない。
「きっかけはやっぱり家柄よね。けど嫌々でも続けるうちに好きになってしまったんだと思うわ」
ヒューゴにとっての武術と同じだろうか。
それなら理解しやすかった。
「後は、兄のこともあるのかしら……」
「お兄さんに負けたくないって……?」
「そうね。昔は仲は悪くなかったみたいなんだけど……あれ以来かしら」
アップルは頬に手を当てて考え込む仕草をした。
含みのある言い方にヒューゴは訊ねずにはいられない。
「あれって?」
「三角関係だったみたいなのよ。シーザーとアルベルトと、ある女の子。その子をアルベルトが酷い振り方をしたらしくてね、大喧嘩」
アップルは苦笑を浮かべていたが、どこか楽しげだ。昔話はいつも楽しいものだ。
一方のヒューゴは初めて聞くシーザーの過去を苦い気持ちで聞いた。詳しく知りたい一方で、聞きたくなかった。
だがやはり先を聞かずにはいられなかった。
「だから……」
「そう、多分それが仲違いの原因で、今に繋がってるんだわ」
ヒューゴの頭を嫌な考えが過ったが、見ない振りをしたかった。
しかし正に過ったそれがアップルの口から発せられる。
「まだ、彼女のことを好きなのかしらね」
「まさか!もうずっと前なのに」
予想外に必死な声が出てしまって、自身で驚く。
アップルは特に気に留めた様子は無い。
「そうよね。きっとあの二人は単に性根が合わないんだわ」
そうだ、と心の中で相槌を打ちながら頷くが、生まれてしまった不安は消えずに残った。
* * *
日も暮れて早々にヒューゴは布団に入っていた。
まさかとは思っていても気分が晴れず、早めに眠ってしまおうと思ってもなかなか寝付けず、むしろ考えたくないことを考えてしまうアイロニーを抱えていた。
悶々としているとノックの音が響いた。誰とも会うつもりは無かったので、寝た振りを決め込む。
「開けるぞ」
聞こえてきた声に動揺する。
正に今ヒューゴを悩ましているその人、シーザーの声だった。
夜に時間があれば訪ねて来ることもあったが、いつものことではない。だというのになぜ今日、今、来てしまったのか。
声の主を知って余計に顔を合わせられなくなって、ヒューゴは狸寝入りを続けた。
扉が開かれる音を聞く。
「……寝てるのか?」
やはり呼び掛けには答えない。
それで行ってしまうかと思ったら、室内に入り込む気配がした。益々動揺する。
足音がすぐ目の前に近付いて、ベッドが軋む。腰掛けたのだと予想した。
恐らく顔を見ているのだろうが、狸寝入りに気付かれはしないかとヒヤヒヤする。
唐突に頬を撫でられて、危うく表情を動かすところだった。
髪を梳いたり撫でたりをひとしきりして、動きが止まった。何事かと構えていると、唇に柔らかいものが押し当たる。
咄嗟に、覆いかぶさっているであろうシーザーの体を押し退けた。
手の甲で口を押さえてシーザーを見ると、やや驚いた表情だ。
「なんだ、起きてたのか」
悪びれもせずにそう言ってのける。
ヒューゴは彼から少し距離を置いた。
「ヒューゴ?」
「シーザーは、なんで軍師になろうと思ったんだ?」
「なんでって」
「オレのこと、本当に好きなのかよ!」
シーザーは珍しく困惑の表情を浮かべる。
これでは感情をぶつけているだけだとわかっている。だが本人を目の前にして溢れてくるものを止める術を、ヒューゴは知らない。
「なんだよ、それ」
シーザーの雰囲気が少し変化した。
隠しているようでヒューゴには微かにしか感じられないが、それは確かに怒りだった。
滅多に感情を高ぶらせない彼の怒りに怯えた。
「俺を疑ってんのか?」
ヒューゴは視線を外して自分の手を見た。
少し間があって、シーザーが言葉を発する。
「……で、何があった?」
いつもの調子の声だった。
自分が傷つけられたのに、あくまでヒューゴを信じてくれる。こんなに優しい彼を信じたい。けれど、どんな真実であれシーザーの口から聞きたい気持ちも強かった。
たっぷりと溜めてから答える。
「……昔、お兄さんと大喧嘩したって」
「あいつとの喧嘩なんて有りすぎてどれのことかわかんないって」
「女の人を、取り合ったって……それから仲が悪いって……」
「はぁ?……あー、まあ事情はわかったよ。俺があいつとまだ啀み合ってるのはそれを引きずってるからじゃないかと、そういうことか」
小さく頷く。
「まず最初のお前の質問に答えると、好きだから軍師やってんだよ。最初は嫌々だったけどさ、そのうちにハマってたんだよな。アルベルトは関係無い。それと俺がアルベルトと馬が合わないのは、考え方の違いのせいだ。家族だからこそ、その違いに納得できなかった」
一気にそこまで話して、シーザーは一拍置いた。
「それからその女の人っての、多分幼馴染みだと思うんだけどさ、そういうんじゃないから」
ヒューゴが視線を送ると、もっと説明を要求しているように見えたのか、シーザーは話を続けた。
「うちもそれなりにでかい家だったからさ、金持ちとも付き合いがあったんだよ」
件の彼女はその中の一つの家の娘だったのだ。
彼女はアルベルトに恋心を抱き、アプローチした。しかし彼は全く気の無い素振りだった。
そんなわけで、彼女はアルベルトに会いにしばしばシーザーの家を訪れたが、賢い娘でシーザーとも気が合った。
気が合ったと聞いてヒューゴの中で再び嫉妬心に火が点きかけたが、シーザーが付け足す。
「もちろんただの友達としてね。良い奴だったよ」
ヒューゴはそこでアイラを思い浮べた。
彼女のような存在がシーザーにもいたということか。
気分が少し落ち着く。
それから、彼女が社交界にデビューすることになって、彼女はその連れにアルベルトを誘った。アルベルトは引き受けた。
彼女は喜んでシーザーに報告したが、シーザーは彼女を止めた。アルベルトのことだから、何か企みがあると考えたのだ。だが彼女は聞く耳を持たなかった。
そこでシーザーは自嘲的な笑みを浮かべて、一旦言葉を切った。
「俺もバカだよな。そんなこと言っても神経逆撫でして、意固地にさせるだけだ。彼女の反応は当然予測できたはずなのに」
それで結局二人で行くことになったが、案の定散々な結果だった。
アルベルトは上手く立ち回り、彼女よりもっと金持ちの娘に取り入って、その親に自分を売った。目的はクリスタルバレーへの留学の際の金銭的な後ろ楯だ。
シルバーバーグ家にもそれなりに金銭的余裕はあったが、アルベルトは自らで工面する心積もりであったらしい。
挙げ句、取り入ったその娘が、アルベルトの連れである彼女を気に掛けると『昔から付き合いのある娘で、妹のようなものだ』と言い放ったそうだ。
アルベルトが彼女の気持ちに気付いていないわけが無いのに、とシーザーは語気を荒げた。
ヒューゴは、もしかしたら彼は本当に気付いてなかったのでは、と思ったが、詳しい事情を知らないヒューゴには何とも言えない。
「彼女、俺に会うなり泣いたよ。それで俺、あいつが許せなくて大喧嘩。まあ俺が一方的に吠えてるだけだったけどね」
シーザーは盛大に溜め息を吐いた。当時のことを思い出したのだろう。
「そういうわけで、別に彼女のこと、そういう意味で好きじゃなかった」
ヒューゴは視線を逸らして黙り込む。
カラヤでは素直に育ったと誉められることが多いけれど、それは他人に対してであった。親しい者には、しばしば嘆息される。自らの感情にも素直になれ、と。
今もその面倒な性格が邪魔をして、素直に笑えなかった。
「……ヒューゴ」
呼ばれて顔を上げると、シーザーがずいっと迫る所だった。
逃げる暇も無く距離を詰められて、体を引き寄せられた。急激に迫って来るシーザーの熱い視線に耐えられずに、目を固く閉じる。
そして覚悟を決める前に、唇が重なった。重なったまましばらく時が止まって、そっと離れる。
息がかかるくらい間近でシーザーが言葉を紡ぐ。
「彼女には、こういうことしたいと思わなかった」
「……馬鹿」
「馬鹿でいいよ。信じてもらえるならさ」
するすると絡まった糸が解けるように、頑なになった心が解れていく。頑なでいようと心の中で突っ張っていたものが、ぽっきり折れてしまった。そんな感じがした。
シーザーのいつものやり口だ。当人はそんなことを意識しているわけでは、ないのかもしれない。それなのに、口付けを受けるだけで骨抜きにされてしまう。
「……ごめん。シーザーのこと疑って」
「いいって。ちょっと不安になっちゃっただけだろ?」
「うん……」
頬を擦り合わせて腕を腰に回す。
好きの気持ちが溢れて止まらない。感情を制御する術を奪われてしまったから、身を任せるしか無かった。
「妬いてもらえるなんて幸せだよ」
シーザーの手がヒューゴの短い髪を梳く。
そうやって甘い感覚に酔っていたのに、シーザーが突然小さく声を漏らしてヒューゴを突き放す。
「そうだ。まだ一つ答えてないことがあった」
「え、そう?」
深く頷いて、大真面目な顔でヒューゴの目を見つめる。
そんなに真っ直ぐ見つめられてはヒューゴも視線を外せなかった。
「ヒューゴ、本当に好きだ。何があってもこれだけは信じていいから」
必死にも見えるくらい真剣なシーザーの目に、悪いとは思ってもヒューゴはつい吹き出した。
「笑うなよ。こっちは真剣なんだ」
シーザーが拗ねた表情をする。
「真剣だからだよ……」
じわじわ笑いが込み上げて止まらない。
照れ隠しかもしれなかった。正直、心が騒いでいる。
彼の一挙手一投足でこれほどまでに乱れてしまう自分を顧みて、心の中をどれだけ彼に侵食されているのかに気が付いた。
シーザーが口を開く。
「てゆうかさあ、俺、お前に言われたちょっとしたことでこんなに必死になっちゃって、どんだけ夢中なんだよって」
正に同じことを考えていたシーザーに驚く。
シーザーがヒューゴのその顔を見て、只でさえ緩い口元を更に緩めた。
「なに、もしかしてお前も同じこと考えてたとか?」
「べつに!」
「お前顔に出やすいんだって」
居心地が悪くなり、シーザーのにやけ顔から顔を背ける。
「俺、最近何かに熱くなるとか、怒るとか無我夢中になるとか、そういうのあんまり無いわけ。どんだけ好きかわかった?」
「わかったから、しつこいよ!」
「照れない照れない」
まだ文句を繋げようと口を開いたところを、シーザーの口で塞がれる。それを振り払うことはしない。
またこうして翻弄されてしまう自分にうんざりするが、口付けで浮つく頭は、まあ幸せだからいいかと妥協してしまった。
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