バレンタインデー。
本来の意味は古の聖人の偉業を讃えた記念日であったが、その時々の時勢によって形を変え、現在は特に恋するひとにとって重要な意味を為すものになっていた。
上司や同僚、友人知人家族に日頃の感謝を込めて送る者も大多数を占めていたが、その中に紛れて交わされる恋心。
一般に『義理』と言われる贈り物は、メッセージカードであったり菓子であったり様々。しかし『本命』は必ずチョコレートと決まっていた。男女関係無く、好いていればチョコレートを贈る。
この文化は、ゼクセンで一般的なのであって、他国にはほとんど浸透していない。グラスランドの民は当然知らなかったが、両者が打ち解け始めて、彼らも知るところとなった。
二月の十四日……バレンタインデー当日のビュッデヒュッケ城は、戦争の最中とは思えないほどに緩やかで賑やかな雰囲気だった。
シーザーは二階の窓から人が集まる広場を見下ろし、眺めている。
アップルが背後で話す。
「外に出ないの?あなたも行けばもらえるんじゃないかしら?」
「冗談。もらえすぎて困るよ」
「またそんな……でも、そうね」
それにわざわざもらいに行く必要も無い、と付け足す。これは声にはしなかったが。本当に欲しいのはたった一つだけで、それは手に入ると確信している。
アップルがシーザーの言に納得したのにはそれなりの訳がある。
シーザーは決して自分が女性……ましてや男性にチョコレートをもらえるとは思っていないが、立場上義理は大量に頂けるだろう。
それなりに名が通っている者は皆、自室に引きこもっていると聞いた。あえて外に出て自らプレゼントを渡している者もいるが、シーザーはそれ程ひとに興味が無い。
渡したいと思う者はただ一人。
「お目当ての人は?」
「まぁ、それなりにね」
「今まで来ないということは、外にいるのではないかしら?チョコレートを渡そうとする人に囲まれてしまっているのかも……」
「まさか……」
彼は……ヒューゴは、この団体の代表者。将。炎の英雄を継ぐ者だ。破格の人気振りだろう。プレゼントとチョコレートを保管するには、小さな倉庫が一つ要るかもしれない。
何も無い時でも常に皆が側にいようとするのだ。彼が今外に出れば、シーザーの小さい主は潰れてしまうだろう。
そんな中に彼が敢えて飛び込むとは考え難い。
まあ、ヒューゴならやりかねないかな、とふと笑って、手に持ったカップを口に近付ける。
眼下の光景を観察する。
一見はただの群衆だが、よく見ると人々はいくつかの群になっていた。
その中心には、例えばトーマス。
いつもの如く、人垣の真ん中で困った顔をして立ち尽くしていた。彼の前では、セシルが主人が押し潰されないように躍起になっている。
トーマスは、商いをする者にとっても恩人であるし、炎の運び手にとっても大きな功労を働いた恩人だ。それにあの人柄。城主という立場にありながら驕りという言葉とは無縁で、城主らしくないことで有名だった。人の上に立つことに慣れていないせいか、好かれる権力者だろう。
ユイリの周りにも群衆。本人はその状況を予想していなかったようで、対応を決め兼ねているようだった。彼女の周りには女性ばかりいる。それも、皆チョコレートを持っているようだ。これも、彼女を困らせる原因の一端だろう。
対照的なのはユミィだ。こちらの周りには男性の群。彼女は差し出されるチョコレートを柔らかな物腰でことごとく突き返している。その微笑みはなかなか侮れないものがある。
勢力図を見ているようで愉快で、口許に笑みを浮かべながら再び茶を口に含む。
そうして少し遠くに目をやって、ギョッと目を剥く。
そこには一際大きな人の山。その大きさにまず驚き、次いでその中心に輝く黄金に驚く。
「……アップルさん」
「どうしたの?」
「俺が間違ってたよ」
「……そう」
窓の外を見たままでアップルの表情は見えないが、声の様子から笑っているのだろうと予測できる。
シーザーは見える光景から視線を外し、乱暴にカップを置いて部屋を出た。
城の外のあの様子を見た後では、城内はひっそり閑散として見えた。それでも何となく活気があるのは、こんな日だからか。
正面扉から出ると目立ちそうだと考え、酒場に回った。
酒場も普段と比べれば人影はまばらだ。シーザーを気に止めた様子も無く、彼らはこの行事に参加しない者達なのだろう。三人の楽団が奏でる音楽だけが静かに聞こえる。
そこを通り抜けて、シーザーは外に出た。
扉を開けた途端に外の喧騒が耳に入る。どこを見ても人だ。一瞬圧倒されて、すぐに立ち止まっている暇の無いことを思い出す。
なるべく目立たないように、人込みに紛れて移動する。目指すは城門付近だ。そこにヒューゴがいる。
「……ねぇ、あの赤い髪……」
どこからか、声が聞こえる。
赤い髪といえば、シーザーぐらいしかいない。この髪はどうにも目立って不便だ。
数人がその声でシーザーに気付いただろう。声がかかる前に、駆け出した。
「あ!軍師様!待って下さい!」
大きな声で呼ばれれば、周り中が振り向く。
内心で舌打ちした。
「悪い、今急いでるんだ!」
それであきらめてくれるとも思えなかったが。
後ろから声が追いかけてくる。無視するのに心が痛むが、全てに付き合っていてはトーマス達と同じ状況になる。
どうせ義理だから、すぐ諦めるだろうと考えていたが、なかなかどうしてそう上手くはいかない。浮かれた気分の人々は、義理だろうと本命だろうと人に贈り物を渡すことそれ自体に価値を見出だし、それしか頭には無い。
後ろから呼び止める声を振り切り、前を塞ぐ人を押し退け、やっと辿り着く。止まれば捕まるので走ったままヒューゴの周りの群衆に突っ込んだ。押し退けられる人々から迷惑そうな顔で見られているのは十分わかっているが、そんなものは知るか、と中心に向かう。
「ヒューゴ!」
驚いたように大きく開いた目。
彼の口は何か言葉を紡ぎ出そうとしたが、シーザーが腕を強く引いたことでそれは遮られる。
そのまま再び人の垣根に突っ込む。呆然とする人々は、簡単に道を開けた。
それに乗じて囲いを抜ける。
始め、ヒューゴの腕を引いて走っていたが、いつしか並走していた。
後ろを見ると、ようやく我に帰った人々が何か言っていた。
隣りを走るヒューゴを振り返る。
彼も後ろを見ていて、前に首を戻すとシーザーに笑いかけた。
シーザーも笑い返し、また前を向いて走る。
追いかけてくる者はいなかった。
再び群衆の中を突っ切るのは勘弁してもらいたかったので、城とは反対方向に逃げてきた。
つまり、今は草原の真ん中。
人の形が判別できないほど遠くまで走り、止まった。
弾む息を整えるのに時間がかかる。ヒューゴはほとんど息を乱さずに隣りに立っている。
「おま……っなんで、そんな……平気、な顔……」
彼は苦笑した。
やっと自分を落ち着かせて、それを見たヒューゴが口を開いた。
「……まだ、渡してない人がいたんだけどな」
「それにしたって、あの状況じゃ身動きもとれないだろ?」
「オレにくれるためにあの人達はあそこにいたんだ」
こいつは……と頭を抱えた。
「あのなぁ、あいつらがそういう目的だったんなら、そう簡単に解放してくれないのは予想がつくだろう。つまり、お前はあいつらが飽きるまであそこに突っ立って、自分が渡しに行くこともできずにもらうばかりで、抱えきれないプレゼントと一緒に取り残されるわけだ」
「でも、」
「やり方があるだろ?どうせアレ全部抱えられるわけじゃなし、どこか一ヵ所に持って行ってもらうとか」
「でも……」
「そりゃあな、せっかくの贈り物だ。直接もらって、できれば話したい。相手はそうしたいだろうってお前が考えるのぐらいわかるよ。じゃあお前は?お前の意志はどこにある」
「オレは……あの人達の気持ちを、尊重したかった」
「じゃあ、どうして付いて来た?俺の腕を振りほどけばよかったんだ」
ヒューゴは狼狽える。
彼の心の内は、混乱していた。
今言ったことは真実自分の思っていたことだ。ヒューゴ自身、プレゼントを渡したい者は何人もいたが、それは受け取った後でも間に合うと思っていた。
けれど、腕を引かれて駆け出したのは、何故だろう。
困惑して、シーザーの目を見る。眠たげな目に珍しく真剣なものを宿して、ヒューゴを見ていた。
そこで唐突に答えが弾き出された。
肩から斜めに提げた袋に手を入れて中をまさぐる。
「……これ」
差し出すと、シーザーはそれを受け取った。
「……これが一番、したいことだったんだと、思う。だから……」
腕を引かれるまま、走った。
誰かに渡すことは二の次でも良かった。
けれど、唯一最優先でしたかったこと。
それに早く気付いていればこんな面倒なことにはならなかった。外に出る前にシーザーを尋ねればよかったのだ。シーザーは、朝早くから尋ねても寝ているだろうと思い、他を優先した。寝ていても、起こせばよかったのだ。
反省が次々と湧き上がる。後悔というものは、先にはしないものだ。
シーザーの顔をまともに見ることができず、僅かに視線を逸らしたまま口を開く。
「……ありがとう」
「ん?」
「連れ出してくれて。それから、悪役になってくれて」
「悪役?」
「オレが自分であそこから逃げ出せばオレが悪者だけど、シーザーが連れ出してくれたから、シーザーが悪者になった」
「そこまで考えてねぇよ。偉そうなこと言ったけど、結局コレが目当てだ」
そう言って、ヒューゴが渡した箱を軽く持ち上げて示す。
シーザーはそう言うが、頭の回転の早いシーザーがそこに考えが至らないはずが無い。そういう目的でないにしろ、そういう意味の行動になることぐらい考え付くはずだ。
「ありがとう……」
たくさんたくさん、ありがとう。いっぱい、ごめん。
多くのものを込めて発したが、少ない言葉に全てを表すことはできず、もっとたくさん伝えたいんだ、という想いでシーザーの服の端を掴んだ。
自分のものよりも身長の分だけ少し大きな手が、頭を軽く叩いた。
「ヒューゴ、開けていいか?」
「あ、だめ!部屋で!!」
シーザーが、ヒューゴのプレゼントを開けようとするので、慌てて止めた。顔が少し熱くなる。
シーザーは口許に笑みを刻んで続ける。
「なんで?」
「楽しみは後の方が良いだろ?」
「いや今がいい」
「後の方がいいよ!だから、な?」
「それじゃあ今渡した意味が無いだろ。逃げ出してまで早く渡したかったんじゃないのか?」
顔の熱が全身に伝染した。
もう言い訳が見つからなかった。
いくら言い訳しても、シーザーには勝てないのだ。シーザーの思うように事は運ぶ。
黙って俯いた。
箱の包みを開く微かな音が耳に入る。
ちらりと盗み見ると、箱の中身を口に運ぶところだった。そうしてヒューゴを見る。
目が合って、慌てて視線を断ち切った。
「……シーザーは?」
「ん?」
「くれないのか?」
「欲しいか?」
答えない。
答えを知っているのにあえて訊く彼が憎らしい。
「ヒューゴ、こっち向け」
自分から仕掛けた手前、言われた通りにするしかなかった。
前を見ると、間近にシーザーの顔があって、思わず目を閉じる。
すぐに唇に柔らかい感触が。頭を押さえられ、顎を捉えられては動けない。
無理に口を開かれ、何かが口の中に転がりこんだ。
それは、苦く甘い。
すぐにシーザーは離れた。
赤い顔を見せたくなくて、シーザーの肩に額をあてた。
「……こんなの、プレゼントとは言わない」
「そうか?」
そうだ、と答えて、口の中の塊を転がす。
緩く腰を抱く腕に応えて、身を擦り寄せた。
チョコレートの味は、恋の味。
苦く甘く、儚く溶けて、ずっと後味だけが残って切ない。それさえもそのうちに消えてしまうけれど。でも、悪くない印象を残して消えていく。
恋とは、そういうものなのだろうと思う。
(けど、このチョコは溶けない)
シーザーの匂いで胸を満たしながら自分に言い聞かせると、それは現実になる気がした。
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