母が入院した。
頑張るのに疲れてしまったんだと、医者には説明された。
ティーダは毎日学校帰りに見舞いに行った。母は笑顔で迎えてくれたが、元気の無い笑顔だった。それでも泣いている顔よりはずっといい。ジェクトに泣かされる母は見たくない。だが相変わらずジェクトのことばかり考えているようで、ティーダには面白くなかった。
アーロンはやはり、時々ティーダを訪ねてきた。食事等の世話は親戚がしてくれたが、親戚ができないときにはアーロンがすることもあった。時には会話もしたが、大抵は黙って見ている。母の容態を聞かれて、その時にアーロンが口にした死という言葉が気に食わなくて怒った。アーロンはそういう不器用な接し方ばかりだった。
母が入院して大分経った頃、いつも遊ぶ友人が遠出に誘ってくれた。友人の父親が企画してくれたそうだ。遠出と言っても、日帰りの範囲で山に遊びに行くだけだ。
計画のその日が楽しみで、ティーダはずっと機嫌が良かった。
アーロンが訪れた時も上機嫌で、ティーダは計画のことはもちろん、諸々のことをたくさん話した。話せばアーロンは答えるから、会話は弾む。それで気付いたのだ。アーロンは自分からあまり話さないが、ティーダに合わせた答えは返す。いつも会話が続かないのは、ティーダが続ける気が無かったからなのだ。
そして待ち侘びた日がやって来て、ティーダは朝早くから出かけた。友人の父親が郊外まで連れて行ってくれた。友人と、彼の父親の仲が良さそうなのを見ていて、羨ましかった。ジェクトがあんな父親でさえなければティーダももっと幸せになれたのだ。
山には家の周りでは見られない動物や植物がいて、興奮が治まらなかった。
一通り山の空気を満喫したら、友人とゲームをすることになった。時間内に青い鳥の羽根を見付けるというものだ。
約束の場所に戻れるように、木に目印を付けながら探索した。そこまでは、ティーダも自分と友人を賢いと自賛する。子供向けの冒険小説で読んだ知識だったのだが。
ただ、ティーダは視野が狭くなりがちな子供だった。それを自覚していないのは、極めて愚かだと後に自身で反省している。
山を歩いて、鳥の羽根を見付けては拾い、その色に肩を落として捨てる。ティーダはずっとそれを繰り返していた。予想以上に難しいゲームだった。
大きく溜め息を吐いて、空を仰ぐ。と言っても木がほとんど隠してしまって、空は見えない。隙間からちらちらと見える空を見て、少し休憩する。
鳥が一羽飛び立った。逆光でよくは見えなかったが、何という気も無しに眺めていると、鳥の羽根の色が一瞬だけ見えた。ティーダは声をあげそうになる。深い色合いの、青だった。
ティーダは夢中で追い掛けた。本来の目的は、ほとんど忘れていた。
もちろん鳥に追い付けるはずもなく、すぐに見失ってしまったわけなのだが。あがってしまった息を整えて、ふと頭が冷静になる。来た道がわからなくなっていた。
これ程落ち着きを無くしたのは初めてかもしれない。そして、落ち着かないのに何もできなくてこんなに焦ったこともない。
ティーダの周りの木々が、今更怖くなった。
人を襲うような獣はいないと聞いたから、それはいい。だが恐怖の対象が一つ減ったからと言って、ティーダの気分は変わらない。
友人の父親は、はぐれたらどうしろと言ったか。そうだ、動かずに待てと言った。待っていれば誰かが迎えに来てくれる。
それを思い出しても、ちっとも安心しなかった。
ティーダは大声を張り上げた。
「おーーい!誰か、いませんか?」
返事は無い。益々不安が募る。
何度か呼び掛けてみたが、結果は変わらなかった。
ティーダはその場に座った。木に背を預け、膝を抱えて、顔を伏せる。こうしていれば、いつか誰かが助けてくれる。ひたすらそれだけ言い聞かせた。

* * *

ティーダはいつの間にか眠っていた。目が覚めたのは、枯葉を踏む音が聞こえたからだ。
辺りはもう暗かった。日が落ちると、ぐっと冷え込む。ティーダの身につける服だけでは、とても寒かった。
「誰かいるの?助けて!道に迷ったんだ!」
立ち上がって、音がした方にティーダは目をやる。
いくつか小さな光が見えた。それだけでは何だかわからない。光の正体を見極めようと、目を凝らす。
大きな虫のようだった。大きな、本当に大きな。ティーダが四つんばいになったら、同じくらいの大きさなのではなかろうか。異常なサイズに、ティーダは恐怖した。
無害な動物しか居ないと言っていたが、今にも襲い掛かってきそうだし、あれが無害だとしても恐ろしい。羽を立てて、こちらを威嚇しているかのようだ。ティーダは一歩足を引いた。
虫の羽の光が、急に強くなり、明滅を繰り返す。
まずい、と直感で悟って、ティーダは駆け出した。そのすぐ後に背後で不吉な気配がして木の倒れる音が響く。
背を向けて逃げて正解のようだった。
ティーダは必死で走った。足の速さはクラスでも上位だ。だが子供の限界も知っているつもりだった。
後ろを見ると虫が追ってきている。速くはないようだが、ティーダは逃げ切る自信が無かった。それでもとにかく走るしかなかった。
「なんなんだよ、もうっ!」
また後ろを見ると、差が縮まっている。涙が出てきた。更に悪いことに、虫の羽が点滅を始めた。ティーダの恐怖は最高潮に達していた。
「やめろよ!誰か、助けてよー!」
もうダメか、と諦めて、衝撃を覚悟してしゃがんだ。
痛いのかな、それともそれもわかんないくらい一瞬で死んでしまうかな、母さんにもう一度会いたかったな。
衝撃がくるまでの間に色々なことを考えたが、いくらなんでも間がありすぎた。恐る恐る後ろを振り返ると、虫と自分との間に、見慣れた人影があった。
アーロンだ。
「なんで……」
「そこから動くな。俺の後ろにいろ」
動くなと言われなくても、腰が抜けて動けなかった。
アーロンの声の調子はいつもと変わらなかった。左腕が顕になっていて、その太さと逞しさにティーダは驚いた。大きな剣を肩に乗せて、重そうなのに真っ直ぐ立っている。
虫は再び羽を光らせだした。ティーダは危機を感じたがアーロンは動じない。
徐にアーロンが動いた。
虫に突進して剣を振る。それだけだった。呆気なく終わった。不思議な色の光がいくつか散っていく。
アーロンがティーダに近寄って来る。ティーダの涙は止まらなくなっていた。それを隠すのに顔を伏せる。
「泣いているのか」
上の方から低い声で問われる。
ティーダは首を左右に振った。
「恐ろしかったか」
「…………」
何も言わないでいると体が中に浮いた。そのまま温かいものに包まれて、顔が何かに押し付けられる。
驚いて顔を上げるとアーロンの顔がすぐ近くにあって、そこで漸く抱かれているのだと気が付いた。
「泣いてもいいんだぞ。今はな」
初めて泣くことに文句を言われなかった。嫌な顔をされるばかりで、優しくしてもらうなんていうことは絶対に無かった。
ティーダは嗚咽をなんとか堪えながら、アーロンの肩口に顔を押し付けて涙を流した。
思えば大人の男に抱かれるのも、記憶にある限りでは初めてだった。ジェクトに抱かれるのはティーダが拒否したし、他にティーダを抱こうとする大人は居なかった。
母の柔らかい腕に抱かれると心が満たされたが、母とは違う、武骨で逞しい腕に抱かれると安心した。それから、母は良い匂いがしたが、この人は少しタバコ臭い。
アーロンはティーダを抱いたまま歩きだした。揺られているうちにティーダの涙も止まる。
「……なんで来てくれたの?」
「お前の親戚から連絡があった」
ティーダはアーロンの住んでいる場所も知らなかったのに、大人同士はもう連絡を取り合っているらしい。ティーダがアーロンのことを知らないのはティーダ自身が知ろうとしなかっただけではあるが、ティーダの知らないところで事が動いているのは嫌な感じがした。
「じゃあおじさん達も来てるの?」
「来られないから俺に連絡があった」
「ふうん……あのさ、あんた、なんで僕なんかのためにこんなにしてくれるの?あいつの、ただの友達でしょ?」
アーロンは少し考えているようだった。
「それが、俺の存在意義だからだ」
「ソンザ……何?」
「俺はお前を守るためにいるということだ」
それが何故なのかをききたかったのだが、これ以上アーロンは教えてくれないだろうと何となくわかった。
それからずっと、アーロンが枯葉を踏む音しか聞こえなかった。心地よい揺れとアーロンの腕の温かさが協力して、ティーダの眠気を誘った。それでうとうとしているうちに眠ったらしく、気が付いたら自宅のベッドに下ろされるところだった。ひんやりとした布団が気持ち悪い。今まで包まれていた温もりが恋しくて、たった今離れていった手を掴む。
「行かないでよ、アーロン……」
薄明かりだけ点けてあったからアーロンの表情が見えたが、彼は苦笑していた。苦い笑いにしろ、この男が笑う顔を見るのは初めてだ。案外優しい顔だった。
同じベッドに横たわったアーロンは、ティーダの上に自分の腕を置いた。ティーダは漸く落ち着いて目を閉じる。すぐに眠りは深くなった。

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