少年は外に一人で居た。家の中では母が放心している。少年には自分の感情の意味がわからなかったが、母の側にいるのは嫌で外に居るしかなかった。
少年の母は、父ジェクトの行方がわからなくなってからしばらくの間ずっと、泣いていた。
少年は大嫌いな父がいなくなって、嬉しかった。喜んでいた。
だが彼の母は泣いていた。泣くばかりで、世話はしたが、息子のことを見なかった。涙を流さなくなってもそれは変わらない。
少年は気付いていなかったが、彼は寂しかったのだ。父がいれば、母は父ばかり見た。父がいなくなれば、彼女は可哀想な自分ばかり見た。結局母親は自分の息子を顧みなかった。その事実は少年の胸に重くのしかかっていた。
そんなことを深く考えていたわけではないが、少年は母の側にいることが減った。
だがそれで少年の寂しさが癒されるはずは無かった。
彼はこの寂しさという感情の名前を知らなかったし、自分の心にそれ程敏感でなかった。ただこの嫌な気持ちは父が原因に違いなかったから、嫌いだった父を益々憎んだ。
だがそれもまた少年を癒してくれることは無いことを、彼はまだ知らない。
父が消え、捜索も諦められかけていた頃、家の前で一人で遊ぶ少年の許に、男が訪れた。
「お前がティーダか?」
突然自分の名前を呼ばれて、ティーダは驚いた。
振り返って少し離れた所に立っていたのは、見覚えの無い人間だった。顔にある大きな傷に、嫌でも目がいく。
怖かった。
それを精一杯隠してティーダは問う。
「……誰?」
男はティーダに近寄った。大きな体で側に寄られると尚恐ろしい。
「アーロンだ。ジェクトの友人だ」
「あいつの?知らないの?あいつは今いないよ」
父の名前が出て、ティーダの機嫌は悪くなった。
アーロンへの評価は、最初からマイナスだ。ジェクトの友人で、ティーダが嫌いでない者はいなかった。この男も、ティーダの気に入ることはないだろうと思った。
手に持ったブリッツボールに目をうつす。
「ジェクトに会いに来たのではない。お前に会いに来た」
「え?」
再びアーロンの顔を見た。やはり怖かった。
「……何の用なの?」
「会いに来ただけだ。元気か」
「なんなんだよ、あんた」
「何も無ければそれでいい。どうだ」
「何も、無いよ」
「そうか。また来る」
多くを語らないまま、アーロンはどこかへ行ってしまった。
一方的な態度は愉快ではなかった。
* * *
「今日、親父の友達って人が来たよ」
母と二人の、夕食の席だ。会話はほとんど無い、つまらない食卓だ。
ティーダは特別何も考えずに今日あった出来事を話した。
何も考えないわけではないかもしれない。見知らぬ人に声を掛けられて母に何も言わなかったことを、怒られるかと思った。だが今の母は心ここにあらずだから、何も言わないだろうと考えていた。
「……あの人の?」
母が強ばった顔でティーダを見た。予想外の反応にティーダは身を縮める。
「それは、知っている人?」
「知らない人だった」
母の顔は益々硬くなる。
ティーダは怯えた。
「どうして言わなかったの!その人、何か知ってるかもしれない!どこの人なの?」
「し、知らないよ。何も教えてくれなかった」
母は頭を抱えてしまった。ティーダはどうしていいかわからず、黙って見ていた。
やがて母は立ち上がり、歩きだす。
「母さん?」
「もう、寝るわ」
母は振り返らない。そのまま寝室に入ってしまった。
ティーダは自分の非を探した。だが、見つからなかった。
食欲ももう無かったが、母が作ってくれた食事を残すこともできず、口に運ぶ。食べ終えたら自分の食器を片付け、母がそのまま置いていった残りを冷蔵庫に入れた。その間ずっと、母が何を怒っているのかを考えていた。
知らない人と話すより、父の友人を名乗る人物のことを話さない方が悪いというのはわかった。
とにかく、アーロンがまた来たら母に会わせなければいけないのだろう。
* * *
アーロンは、それ程日を置かずにやって来た。
学校が終わって友達と遊び、帰宅してから夕食までの間一人で外にいた。玄関の脇でブリッツボールを抱えて座っていると、視界に誰かの爪先が見えた。顔を上げたら、そこにアーロンが立っていたのだ。
「何をしている」
「別に……。あのさ、母さんに会ってくれないかな」
「構わんが」
返事を聞いて、ティーダは玄関の戸を開ける。中では母が台所に立っていた。
「母さん、この前言った親父の友達が来た」
母は弾かれたように振り向いた。台所を適当に片付けて、こちらに走ってくる。
ティーダは、アーロンを振り返って見上げた。
「入ってよ」
「お前は入らないのか」
「あいつの話なんて聞きたくない」
「そうか。すぐに済む」
道を開けると、アーロンは家の中に入って行った。扉から手を離して、勝手に閉まるのに任せた。
ボールを軽く蹴る。転がっていってしまうボールを追いかけ、反対側からまた蹴る。それを繰り返した。
父はもう帰って来ないんだろうと、何となく悟った。アーロンがそれを知っている人なのかは知らないが、きっとそうなのだろう。
もしそうだとして、父が帰って来ないとして、ティーダは喜んでいなかった。父が行方知れずになった時と異なる感情に、ティーダ自身疑問を抱いていた。
様々なことが気になったが、それを考えないようにしてボールを追っていると、宣言通りアーロンはすぐに出て来た。彼は前来た時と同じようにすぐ去るだろうと思い、ティーダは彼を見なかった。
「ティーダ」
名を呼ばれ、ボールを追うのをやめてアーロンを見る。
アーロンは手招きして、先程ティーダが座っていた、玄関の脇に腰を下ろした。ティーダも歩み寄り、その隣に座った。
「少し、話をしよう」
最初に会った時よりもいくらか優しい声に感じた。一方的でない言葉のせいかもしれなかった。
ティーダは何も言わなかった。
「お前の父親は、この家にはもう帰って来ない」
はっきりとそれを聞いても、ティーダは何も思わなかった。一切の感情が湧かなかった。
やはりそうか、と思っただけだ。
「……あんたは、誰なの?」
「俺はジェクトの友人だ」
アーロンはそれ以上教えるつもりが無いらしかった。
ティーダもあまり興味が無かった。
アーロンはティーダが抱えるボールを少しだけ見て、また正面に視線を戻した。
「ブリッツをやるのか」
「うん」
「ジェクトは、有名な選手だそうだな」
「知らないの?」
「詳しくない」
ブリッツに詳しくなくたって名前くらいは知ってる者が多いのに。
アーロンの横顔を見た。こちら側からは傷が見えず、いくらかは安心した。
「プロを目指すのか?」
「……うん」
言い淀んだのは、夢のような話が恥ずかしかったわけではない。この後に言われるに違いないセリフに、聞き飽きていたからだ。
“ジェクトのようになれるといいな”
誰もがそう言う。
アーロンの口からもそれが出てくるのを待った。
「いい選手になれ」
予想外の反応が返ってきてティーダは言葉に詰まる。今まで言われてきた言葉になら、返事の用意はいくらでもあった。だが、それ以外の言葉に対応する、備えも構えもしていなかった。
何も言えないままアーロンの横顔ばかり見ていると、彼がティーダを見た。
「どうした」
「……みんな言う。親父みたいになれって」
「親父が引き合いに出されるのは嫌か」
ティーダは答えなかった。
「お前はお前だ。気にするな」
そんなに簡単に割り切れるものではない。だが、簡単に言い切ってしまう言い方に、悪い気はしなかった。
何より、初めて言われたその言葉が嬉しかった。
そのまま互いにしばらく黙っていた。
「お前の母親は、大分参っているようだな」
「……あんた、母さんに変なこと言ってないよな?」
「と言うと?」
「あいつが帰って来ないとか、言ってないよな!」
「言った」
ティーダは立ち上がってアーロンを睨み付けた。アーロンもティーダを見ていたが、ティーダの怒った目よりもアーロンの冷静な目の方が力があった。
ティーダにもそれはわかったが、怯まないように言葉を続ける。
「なんでだよ!母さん、ただでさえ落ち込んでるのに!」
「あの人が知りたがったからだ。お前も、それを知ってて俺を入れたんだろう」
ティーダは一瞬言葉に詰まる。だが止めるわけにはいかなかった。
「そんなことを、してほしかったんじゃない……」
では何を、と問われてもティーダは答えられない。が、それしか言えなかった。
何を考えてアーロンと母を会わせたのか、わからない。何も考えていなかった。後からの理由付けならいくらで
もできようが、実際あの瞬間そんなものは考えていない。あえて何故なのかと言うならば、母が会わせろと言ったから、としか言えない。
ティーダは、アーロンが父の最期を知っているだろうと思っていた。ティーダの母はアーロンからジェクトのことを聞きたがっていた。二人を会わせることはつまり、母がジェクトの死を知るということだ。簡単な方程式がティーダには解けなかった。
ティーダが俯いている間、アーロンは黙って座ったまま何も言わなかった。ティーダが自分の中を整理するのを待っていた。
「……もう今日は帰ってよ」
「わかった」
ティーダに言われるまま、アーロンは去った。それを見送ってティーダは自宅に入る。
母は居間でつっぷして泣いていた。ティーダが近寄ると、顔を上げて彼を見る。母が泣いた顔は見たくなくて、ティーダは目を逸らした。
ふわりと抱き締められて、一瞬戸惑う。母のコロンの甘い匂いがした。
「ごめんね、私は悪い母親ね」
「あいつに何か言われたの?気にすることないよ」
母はただ首を振る。
ジェクトが居なくなってから母は様子が変わったが、こうして抱いてくれる腕は変わらない。このまま以前の母に戻ってくれることを願った。
そして、アーロンはティーダの嫌いなジェクトの友人達とは違うとわかりかけていた。だが、好きではなかった。
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